20180531(木) グッドモーニングと小泉店長と小諸そばに物申す時、何かが変わるかといえば変わらない

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・京橋宝町/小諸そば 掻き揚げもりそば(掻き揚げ用のタレがない)
 
【夜メシ】
・家/うどん(とろろ、たまご乗せ)、ほうれん草玉子しらす和え、五色漬け
 
【イベント】
鍼治療
 
 
【所感】
■朝恒例のグッド!モーニング
朝、TV朝日の朝番組「グッド!モーニング」をいつものように観ている。しかし目当ては依田司のお天気検定だけなので、他のニュースやコーナーは殆ど頭に入ってない。特に福田成美のつまらなすぎるコメントなどを見てしまった日にはそれだけで朝からストレスを溜めるだけなので、お天気検定以外の時間は大体ストレッチや筋トレに費やしている。

とりあえず今日のお天気検定は外れたが、ポイントはとっくに60ポイント溜まっているので問題なし。だけど1年以上応募し続けているのにB章もA賞も全く当たらないのは問題あり。

そういえば、「グッド!モーニング」のテーマ曲が4月からユーミンに変わったわけだが、一体どの辺で流れてるのだろうか。一度も聴いたことがない気がする。依田以外は観ていないとは言え、TV自体は点けているので耳に入って来ても良さそうなのに。以前は、TVに意識を向けてなくてもCMに入るタイミングとかで「グッモーニンーッ♪」という軽快なフレーズが勝手に耳に入ってきたのだが、今は無音なんじゃないかと思えるくらいに何も聴こえない。番組中、サビの部分とかだけでも使用しているのだろうか。3月の終わり頃、「4月からユーミンの新曲になります♪」とキャスター達が盛り上げていたが、そこで紹介され初めて聴いた時から「何か違う、何かしっくりこない」と思っていたが、松任谷由実の新曲は今現在、視聴者の心に残る曲として支持されているのだろうか。分からない。

このように番組の内容は殆ど頭に入って来ないが、アイダ設計のCMだけは頭と耳に残る。特にCMの物語後半あたり、タメを作った直後、「消せない想いの中をー・・・ッ!」という男性ボーカルの突如の熱唱がとにかく耳に残るし、その熱唱に合わせて小泉考太郎店長が腹黒く微笑むという流れが目に焼き付いて離れない。

この「消せない想いの中を」云々の歌は『FLASH UP」』という曲名らしい。歌っているのは「GAT7」という男性グループとのことだが、韓国のグループらしい。え?そうなの? という感は抱いたが、声のトーンとかサビの歌い方など、言われてみれば韓国歌手独特の特徴があると一方では納得したり。

ただ、この消せない想いのCMには2種類あって、それは長いバージョンと短いバージョンなわけだが、俺が好きだったのは長い方バージョン。以前までは頻繁に流れてたのに、ここ1~2ヶ月くらいは見てない気がする。面白いところを端折った短いバージョンしか映らないので正直不満である。

長い方のバージョンは、小泉店長が家族3世帯(爺さん、息子世帯、孫世帯)に建て替え住宅の案内をしている最中、頑固そうな爺さんが「何でそんな建て替えを勝手にするんだ!」みたいに急に怒鳴り出し、咄嗟に息子が「俺が頼んだんだよ!」などと反抗。突然巻き起こった家族内のいざこざに小泉店長は怯みながらも何とか頑固爺さんを丸め込む。冷静になった頑固爺さんはふと家の柱だか何だかを見る。その時何かを思い出したのか爺さんは、感慨深げな顔で家の中や息子、孫達を慈愛の瞳で見つめる。その頑固爺さんの横顔を小泉店長は、目を細めながら嬉しげな顔で見守り、何かを得心したように頷くシーンでフェードアウトしつつ、「家族の愛が詰まった家、アイダ設計っ」みたいな感じで締めるというクサすぎるCMが大好きだったのだが。「消せない想いの中をーッ!」というフレーズは、怒りを静めた頑固爺さんが感慨深げに家や家族を見つめるあたりのシーンで流れ出すのだが、その頑固爺さんのわざとらしい演技や物語があればこそ、そのフレーズも耳に残ったのだが。

今は、その爺さんが反発する件が全てカットされ、いきなり仏の顔で家の中で見下ろしている爺さんの慈愛顔と共に「消せない想いの中をー!」と曲が掛かるから、何か不自然。初めて見る視聴者は「この爺さんには一体どういう意味があるんだ?」と思ってしまいかねない。それくらいの唐突感がある。物語になってないということ。

あの絵に描いたような頑固爺さんと息子との反発と、うろたえる小泉という図式があればこそ面白かったのに、なぜ長いバージョンを流さないのか。もしかして世間の爺さん連中から「まるで年寄りは頑固で融通が利かない邪魔者と決め付けるかのようなCMで不愉快じゃ!」などと全国の爺さん連中からクレームでも入れたのだろうか。確かにあのアイダ設計CMを観れば、爺さんの頑固ぶりはもうベタすぎるといってもよく、老人は文句しか言わないという印象操作だと言われても仕方ない作り。

真相は分からない。だけど俺は、頑固爺さんの癇癪と小泉店長の胡散臭い笑顔を是非また観たいと願っている。
 
 
■諸々の条件が重なり腰痛は回復基調だが…
仕事後、鍼治療に向かった。今回、いつもの週2ペースでなく1週間ぶりだが、そういう時に限って腰痛がかなり悪化していたというのも何とも間の悪い話だ。まさしく一日千秋の想いで今日と言う日の到来を待ち望んでいた。

しかしそれは昨日までの話。昨日の寝る前まで、とにかく軋むような圧迫されるような痛みに心身を苛まれ、どうにもならないもどかしさと苛立ちで過ごしていたのに、今日の朝起きてみると、何故か腰がかなり軽くなっていることに気付く。痛み度合いが4.5~5だったものが3.5あたりまで治まったという程度の軽減だが、体感的には3倍くらいの違いがあるわけで。

今週初めから風邪気味で、腰の痛みに通常より過敏になっていたという理由はまずあるだろう。まさしく今日の朝、風邪はほぼ治った。感覚が少し鈍化し、腰の痛みも弱まったように感じたという側面は否めない。風邪や寒気、発熱などになると、何もない部位でも「節々が痛い」という状態に陥るから、普段痛む部分ならば尚更。とにかくまずは風邪が治って良かった。

それにしても、少しでも身体を動かすと痛むから何もしたくないという状態だったのが、歩く程度ならそこまで問題にならないレベルまで急に回復したのは風邪が治ったからという理由だけなのか。今年の3月くらいまでは、一旦悪い状態に針が振れたが最後、どれだけ時間を置いても軽減することなど一切なかったのだが。

それについては鍼の先生も驚いていた。よくその状態から戻りましたね、と。腰の筋力が自己回復力と弾力を帯び始めてきた証拠なのではないかというのが先生の見立てだ。これならペースを週2から週1に落としてもいいかもしれません、それで回復力がどれほどのものか様子を見ましょう、と。結果的に、再来週あたりから遂に週1ペースの治療に切り変わったわけだが。

期待よりも不安の方が大きい。

確かに、今までは一旦悪くなってしまえば鍼の力以外では一切戻らなかったのに、今回多少なりとも自己の力だけで戻った。その現象は注目に値する。新たな段階に入った証拠と言えばそうだろう。放置していてもある程度までは自己回復するかもしれない。

しかしそれ以上にはならない。確信的に言い切れる。たとえば調子が良い時の痛みレベルが3だったとして、放置している間に5まで悪化したとする。自己回復力があれば、そこから何もしない状態でも4とか3.5まで再び戻るだろうし、実際戻ったし。だけど単なる放置では所詮その程度の自己回復までが限界。最初の3までは戻らない。

まして、3を突き抜けて2や1にまで改善したなんてしない。本当に目指すべき場所は、その2や1というレベルであり、その先にある完全回復、すなわち完治こそが最終目標なのだ。3という基準値にすら戻らないのに、どうして更に上を目指せるだろう。それを為すには、やはり鍼治療の補助が不可欠なのだ。鍼を受けるために通うのではなく、治すために鍼を受けるのが本来の在り方。最近手段が目的化してしまっていたかもしれないな。

まあ鍼治療とは、いわば自然状態ではもはや緩まない固まった筋肉を強制的に緩ませる行為。またすぐに固まってしまうが、固まるまでの時間が最初は10分だったのが、何度も打つ内に1時間、10時間、1日、2日、1週間、という感じで延びていく。イコール筋肉に弾力が戻り、回復力が強まっている。それまでは弛むことなく打ち続けるのだ、と。

いわば「3歩進んで2歩下がる」のが鍼治療。自然放置だと恐らく「2歩進んで3歩下がる」、つまり日に日にマイナスになると思われる。だから鍼は続けねばならないが、1週間も空けるというペースは果たして。今の俺が持つ回復力で追い付くだろうか。実際のところ、腰の軽快度では、一番調子が良かった4月には遠く及ばない。しかも鍼を打ってから固くなり痛みを顕著に感じるまでの期間が非常に短くなっている気もする。4月は2~3日で固さと痛みが増してきたが、今は正直、打った当日にそれがもう出てくる勢い。大丈夫なのだろうか。

とりあえず多少痛みが出ても筋トレを増やして下半身を肉のコルセットで固めるという作業を急ぐしかなさそうだ。ストレッチは2年続けているが劇的効果は感じられない。劇的効果のある鍼治療はペースが落ちるから今まで以上にはなかなかなり得ない。ならばあと足りていないものは下半身の筋トレ。やるしかないか…。

しかしよく考えてみると、鍼を受け始めてもう丸2年だ。いい加減治さないと。永遠にこのままなんてこともゼロじゃない。いい加減、前に進まないと、ホントに…。色々と違う。いつもと違う。良い方にも、悪い方にも。それをいちいち全て抱え、考えを巡らしたところで余計に何もできなくなるということだ。
 
 
■メシは麺類だが
今日はメシも色々と違った。

昼メシについては、オニギリを今日は持ってきていないので、近くの小諸そばで済ました。小諸そばではたまに食べる。だけどオーダーするのは「掻き揚げそば」一択。冬ならかけで、夏ならもりで。本当にそれ以外のメニューは頼まないし頼む気も起らない。もはや脳内の奥底まで刷り込まれてしまったのだ、きっと。手が勝手に動くのだ。

なので掻き揚げそばの美味しさも体裁も重々知っている。しかし今日、いつもと違うポイントが一点あった。タレが一つ足りなかったのだ。いつもなら、そば用のタレが入った容器と、掻き揚げ用のタレが入った小鉢、計2点がトレーに置かれているのだが、今日はそば用のタレしかない。掻き揚げ用のタレが、ない。

こんなことは長年の小諸そば人生で初めて。厨房の愛想のいいおっちゃんの他、何となく無愛想オーラを放っていたおっちゃんが1人居て、そばはその無愛想おっちゃんが出してきたのだが、無愛想すぎて掻き揚げの存在が頭から飛んでしまったのだろうか。

それとももしかして、「タレは別に一つに統一すればいいんじゃん?」という新たなルールが出来たのか。いやでも、そばと掻き揚げのタレは、明らかに使っている調味料も違うし種類も違うし、統一はできないでしょ、と思うけど。

真相は分からない。ただ長い立ち食いソバ常連生活の中、レアな体験をした。

夜メシは、うどん。昼に引き続き麺類だが、汁は嫁が既に作り置きしてくれている。俺は麺を茹でてぶち込むだけという簡単なお仕事だ。実際簡単だった。しかしそれに加え、玉子を落とし、嫁が職場からもらってきたとろろもそこに垂らす。自身初の「とろろ月見うどん」が完成したという、いつもと違う光景に些細な感動を覚えた。

という昼夜のことを、夜遅く帰宅してきた嫁に話して聞かせたが、嫁は大した灌漑も無さげに冷蔵庫から取り出した氷結を、ミサトさんばりの豪快さでプハーッ、クゥーッ!! と飲んでいた。いつも料理と接している嫁にとって、俺が体験したような出来事は珍しくも何ともない些事に過ぎないのだ、きっと。佐治安人なのだ、マジで。サジマジバーツなのだ。

しびれくらげがホイミスライムにそっくりだと言う嫁に、「ああ、色違いだけど、それが何か?」と俺が全く驚かないのと一緒なのだ。

人には得手不得手がある、ということだ。不得手な分野で世紀の大発見をしたつもりでも、得手な者からすればそれは九九の掛け算をそらんじるがごとき当たり前であり空気である可能性も大なので気を付けたいところ。

20180530(水) よしもと新喜劇を観ていただけの受身姿勢のお陰で風邪がもう治りそう

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー、セブンイレブンゼリー
 
【昼メシ】
・職場付近/自作オニギリ
 
【夜メシ】
・家/キムチ肉豆腐炒め、納豆
 
【イベント】
よしもと新喜劇録画視聴3つ
 
 
【所感】
■回復曲線を描き始めた風邪模様
月曜から突然引き始めた風邪は、昨日なるべく睡眠を摂った甲斐があったのか、今日の朝には大分軽くなっていた。咳の回数も減り、鼻水もあまり出ない。昨日がピークと見て間違いないだろう。あとは回復あるのみ。

ただ、激しい咳を数え切れないほどしたせいか、喉が物凄く痛い。中が切れてるんじゃないかと思えるほどに。そして腰もまだ、いや、かなり痛い状態が続いている。さらに回復にエネルギーを使いすぎたからか、何となくダルい。一つ一つの動作が緩慢で、心が億劫になってしまう。病気って怖いな。

結局、平日毎日やっている券立て伏せや逆立ち腕立てなど、朝の5分間筋トレをやらずに家を出た。トレーニングに対する糸が切れたのではなく、戦略的な一休みだと思いたい。せっかく3ヶ月間ずっと続けてきたのに、ようやく腕の筋肉だけは昔のように戻りつつあるのに、ここでやめたらまたゼロになってしまう。

腰が惰弱な分、せめて腕っぷしの筋力でも付けておかないことには安心できない。どこかで絡まれでもしたら。満員電車なんて常に一触即発だ。武器というより、いざという時の防御のために肉の鎧は存在する。肉のカーテンがあれば、心にも余裕が生まれると思っている。結局、強ければ、力を持っていれば余裕が出るのだ。

物理的な力だけでなく、権力とか学力とか経済力とか、多方面における力、パワー…。いくら綺麗事を言ったところで、その力を得るために多くの人間が闘争の狭間で身をやつす。
 
 
■久々にテレビを観ながらゆっくりと…
帰宅はかなり早かった。その時間を利用して、撮り溜めていた「よしもと新喜劇」を3話分、一気に視聴する。どうせ体力的に本調子じゃないのだ。知力も同じく。気合を入れて鍛えようとしたところで大した成果など出ないし、効率も悪い。だったら考え方を変え、思い切り受身の姿勢で、とことん受動態で過ごすというのも、たまには悪くないのではなかろうか。

そのお陰で、あまり知らなかった頃は、イメージだけで敬遠していた「よしもと」も、ベタだけど非常に面白いことが今では分かったし、受動態なら受動態なりに時間を掛けた分、得られるものもある。その得たものを、能動態に切り替わった時に上手く活用できるかどうか。大事なのはその点のみだろう。

というわけで、TVを見ながら嫁が作り置きしてくれたキムチ肉豆腐を貪欲に食い散らかしたり、デザートに出したエッセルスーパーカップを3分の2ほど食ってから、残りは蓋を閉めて冷蔵庫にそっと戻すという奇行をしてみたり、何だかふわふわした気分と一抹の幸福感を漂わせていた。

嫁も早めに仕事が終わったらしく、いつもより1時間ほど早く帰ってきた。よしもとの一部を一緒に鑑賞しながら俺は、食いかけのスーパーカップを開けた時の嫁の驚き顔を想像するだけで、自分があたかもエンターテイナーであり物語の創造主であるかのような錯覚を覚えるのだった。

20180529(火) 風邪が悪化しても美味く感じるハッシュドビーフ

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・職場付近/自作オニギリ
 
【夜メシ】
・家/ハッシュドビーフ、自作ツナとキュウリのマヨネーズ和え、冷奴
 
【イベント】
無し
 
 
【所感】
■風邪の悪化
昨日の時点で「少し風邪気味かもしれない」と密かに案じていた体調が、今日一日で一気に悪化した。

酷い咳が出る、鼻水も出る、微熱も出てきた気がする。節々にも痛みを感じるような…。当然、腰に響く。歩いているだけでかなり辛い。ここまでの痛みと不快感は久しぶりだ。従来よりも酷く感じるこの腰痛が、鍼治療を一回スキップしたからなのか、それとも体調が悪いせいで敏感になっているからか、良く分からない。

会社に居る最中、目立つのは嫌なので何度もトイレに駆け込み嗚咽にも似た咳払いをし、鼻を噛んでから、何事もなかったかのように戻ってくるルーチンを何度も繰り返し、一体俺は何をやってんだ? と自分の滑稽さに溜め息を吐きながら、帰る頃には視界がもはやぼやけ気味。思考もままならない。早く帰りたいと、とにかくそれだけを考えながら帰りの電車に乗っていた。マスクを常備していて今回ばかりは助かった。

それにしても一体誰がうつしたんだよ…。特定できない誰かに向かって心の中で呪いの言葉を投げ掛けながら帰宅した。
 
 
■とにかく睡眠が欲しい時
そんな状態だから、帰宅後のルーチンも大幅に崩れた。

帰ってからまずシャワーを浴びて、シックスパッドを着けながらメシの準備、そしてメシを食う、そんな流れがいつものパターンなのだが、今回ばかりはメシの用意をする体力がない。むいしろその体力を少しでも回復させるため、まずは睡眠を採りたい。それが一番の欲求だった。

ちょっとだけ寝させてくれ。一時間でいい。とにかく布団に入って眠りたい。類を見ない弱気で俺は、シャワーを浴びた後、目覚ましのアラームだけをセットしてすぐに布団に潜り込む。布団のすぐ横に寝そべっているシャチ雄(ぬいぐるみ)に抱き付きながら「シャチ雄―っ、辛いよーっ、辛いよーっ」と弱音を吐いている内に、いつの間にか視界はブラックアウトした。

眠い時もそうだが、しんどい時も直ぐに寝れるんだな。俺は夢の園に旅立った。
 
 
■日常生活に支障を来たすレベル
スマホのアラームが鳴り、ハッと目が覚める。予定通り一時間ほど眠っていたようだ。身体が少し軽くなっている気がする。眠ることは、人が生きる上で本当に大切なんだなと、今日のように体調が劣悪の時こそ実感するのだ。睡眠を侮るなかれ。

ともあれ、少し寝たお陰で多少は動けるようになった。ちょうど腹も少し減ったことだし、嫁が作り置きしたハッシュドビーフを温めて食った。ハッシュドビーフはいつだって極上だ。作り置きされていた分全て、2~3人前を平らげた。風邪引いてるのにこんなに食欲があるとは…。食欲がある時点で、メシが食える時点で、ましてや「美味い」と思える時点で、この風邪は大したことがないと自覚する。程なく回復へ向かうだろうとも。本当に重い時は、旨みなど感じないし、出されても食えないし、食っても味を感じないどころか不味いとさえ思うものだから。

とはいえ、現時点ではかなりしんどいのは確か。シックスパッドを23分間だけやって、あとはレグザで撮っている「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣チャンネル」を観て、嫁が帰宅するまで再び眠りの床に就いていた。

嫁が帰宅してからは、とりあえず症状をなるべく表に出さないように振る舞いつつ、だけど脱力姿勢で望む。力を入れようとしても入らない虚弱な自分がもどかしく、だけど脱力したい欲求のまま布団に身体をうずめる旅に解放感が押し寄せて…。

結局、何を考え、何を喋り、何を聞いた一日かイマイチ分からない日であった。やはり風邪のせいだろう。

20180528(月) 微妙に変わっていくすき焼きの具材内容と道具

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・職場付近/自作オニギリ
 
【夜メシ】
・家/すき焼き(締めご飯)、東京えんとつ「しっとりふわふわシフォンケーキ パンダえんとつ」
 
【イベント】
無し
 
 
【所感】
■風邪の前兆か…
会社に出社してから風邪気味な気がする。

職場内を見渡せば、マスクをしている人間、ゴホゴホと咳込む者など、風邪っぽい挙動を見せている従業員が4~5名は居た。どこかのタイミングでうつされたか。分からない。分からないが咳が出始める。鼻も詰まってくる。そして腰が痛い。歩いている時など、昨日よりも遥かに痛い。身体が頑強な時には風邪などうつされないのに、今は弱っているということか。身体も、心も。

いずれにしても、嫌な予感がし始めていた。

以前も同じように突然の風邪症状で腰に激痛が来たことがある。その時は、鍼治療の帰りに西新井温泉に入って強引に治した。先生にインフルエンザじゃないでしょうねなどと疑われた症状は、何度もサウナや湯船に入り続けて汗を流せるだけ流した結果、1日で回復した。

しかしそのハードな温泉内活動の代償として、風呂を上がったあと湯冷めして立っていられなくなった。結局、2回ほど気絶した。気絶なんて初めての経験だっただけに当時は驚いたし、気絶している俺を、少なからず居たはずであろう周りの他の客が誰も係員の呼び出しすらしなかったというドライさにも驚いたものである。普通に寝ているとでも思ったのだろうか。更衣室の床で裸のまま、仰向けで大の字になってピクリとも動かない男を見て…。ある意味、恐ろしい。

今回の風邪気味症状も、温泉に入って汗を流すことに専念すれば、すんなり治りそうな気はする。だけどそれは、のぼせて気絶する危険性を孕んだ諸刃の剣。だから選択は慎重に。同じ轍を踏むわけにはいかない。

熟考した結果、温泉はやめておくことにした。嫁も今日は仕事休みで家に居るだろうし、さっさと帰って温かいメシでも作ってもらってぬくぬくとした方がいいだろう。そしてさっさと寝るに限る。回復には食事と睡眠こそが何より重要。「食って寝るだけ」というのは何とも聞こえが悪い言い回しだが、病弱状態の時は正論であり正義。平日、仕事帰りに温泉に入ると帰宅が深夜近くになる。必然的にメシを食うのが遅くなるし、眠りに入る時間も後ろに倒れる。

さっさと帰り、食って寝る。今の自分には正義の行動であった。
 
 
■寝溜めは出来ないが
8時半頃帰宅すると、嫁は直前まで寝ていたようだ。昼間、馴染みの飲み屋で飲んでいたようだ。最初ツマミをちまちま食べながらドリンクをチビチビ飲んでいくつもりだったが、どんないきさtか腹に溜まるランチメニューを最初にオーダーしてしまった。案の定それだけで腹一杯になったため他の食事メニューが頼めなくなった。でもそれだけしか頼まないなんて店に悪いからと飲み物を浴びるようにオーダーした結果、当初の予定を遥かに超えて飲みすぎた。酔っ払ってもう眠くて眠くて仕方がなかったんだよ。

というのが嫁の弁明である。まあ、酒を飲みすぎた時って本当に眠くなる。抗えないほどに。気持ちは分かる。それが自分の酒量を超えてしまった時なら、記憶すら飛びかねない。全くもって酒は癒しの天使であると同時に堕落の魔物である。

まあ、酒だけでなく、仕事の終わる時間が遅いからというのもあるだろう。日々ハードに働き、睡眠時間が減ってくると、どれだけ日中キビキビ動いていようが、どれだけ仕事が楽しかろうが、肉体的な疲労は必ず蓄積されているもの。睡魔も然り。だからふと気が緩んだ時、止め処なく睡眠を貪るという日も出てくる。

後の一週間分の睡眠を先取りすることは出来ない。いわゆる「寝溜め」は出来ない。しかし、前の1週間で蓄積した睡眠不足と睡魔を解消するための「長寝」は出来る。寝たい時に寝たいだけ寝る。起きるまで寝る。それがいかに壮快な気分をもたらすか。日々の睡魔が蓄積してピークに達した状態こそ、それを最も実感できるに違いない。
 
 
■箸を変え、肉を変え
そんな嫁の睡眠も満足した後、夜メシに移行。最近は週の殆どの日が、嫁が作り置きしたメシを温めるパターンで、それだけに嫁が休みの日に作る作り立て料理は希少性が高くなる。また嫁も、朝にパッと作ってしまう作り置きだけでは不満のようで、時間を掛けて料理できる日は重宝しているようだ。

と言っても、メニューはすき焼き。何がいいか? と予め受けていた質問に対する俺からのオーダーだ。さして手間を掛けて作る料理でもない。しかし実力は十分なのは誰もが認めるマスタークラス。手早く作れて、旨くて、ほぼ例外なく満足する偉大なメニュー、それがすき焼き。俺が嫁にオーダーした。俺がグランドオーダーした。

まあ、すき焼きはいつ食っても旨いし飽きない。だから何度でも食うわけだが、入れる具材は都度微妙に変化していく。春菊が高いから水菜にしてみたとか、今日の肉は国産黒毛和牛だよとか、チクワが何か冷蔵庫に余ってるので入れちまえ、とか、理由は色々。

その自由度の高さもすき焼きの人気の所以なのだろうな。他の鍋料理だって別に何入れてもいいという点では変わらないが、すき焼きにはあのどんな具材も旨くしてしまう最強の割り下があるからな。すき焼きの割り下は殆ど万能だ。ゆえにすき焼きはいつ食っても飽きない。いつ食っても新しい。

その新しいすき焼きを、昨日上野で買ったばかりの新しい六角箸に変えて肉を摘む。道具を変えると気分的にも新鮮感が増す。畳と女房は新しい方がいい、などと諺にあったりするが、少なくともすき焼きに入れる肉と野菜と箸は新しい方が良さそうだ。

一方で、すき焼きに使う鍋なんかは古い方が良いかもしれない。ピカピカの鍋よりも、日々料理に使って出汁や割り下が染み込んだ年季物の鍋だからこそ、滲み出る味わいというものがあるのではなかろうか。先ほどの類似ではないが、女とワインは古い方が良い、などとも言うではないか。

矛盾しているようで矛盾しない、新旧それぞれのメリットとデメリット。メリットとデメリットは時に表裏一体で、だけど時に独立しながら世の中に漂い氾濫している。それを見抜けないようではまだまだ知見不足、経験不足というものである。鋭い嗅覚で両方を拾い上げ、大らかなる心で両方を受け入れ、どちら噛み砕きながら丹念に味わう。まさしく目の前にあるすき焼きのように…。
 
 
■コラボという手法
食後のデザートに、嫁が上野から買ってきたというシフォンケーキを食った。「東京えんとつ」という始めて名を聞く喫茶店? 菓子工房? とにかくそこで買ってきたとのこと。

(東京えんとつ)
http://www.tokyo-entotsu.com/about.html

パンダの形をしているので気になったというのが理由の一つだが、それを買った一番の理由は、鳥取の大山(だいせん)産の生クリームを使っているという触れ込みだったから。大山地鶏などであれば都市部でも十分認知度は高いだろうが、大山産の生クリーム、ひいては大山産の牛乳とくればまだまだ知名度に欠けるだろう。

しかしクオリティは一級品、いや超一級品だ。鳥取で少年時代を過ごした俺なら分かる。いやむしろ都市部に出てきた大人になってからの方が、余計に大山産の牛乳やクリームやケーキの凄さを感じる。一緒に何度も鳥取に行った嫁もそれが事実に近いと知っている。

それを知ってか知らずか、東京えんとつは大山の生クリームを使っているという。名前的にも興味があるし、その選択眼にも好感が持てる。だから買ってしまうのだろう。

その大山生クリームを使ったシフォンケーキは美味かった。特にクリームの部分が美味かった。さすが鳥取8、さすが大山。大山とは何なのか? 大山とは、鳥取にある山である。

それにしてもシフォンケーキとは何なのか? 柔らかいふわふわのケーキだというのはイメージ的にある。

ならばシフォンとは何なのか? 服飾用語では、薄く柔らかい織物という意味らしい。なるほど柔らかい、ふわっとした服がイメージできる。シフォンスカートなどという種類のスカートもあるらしい。

しかし柔らかくふわっとしたスカートというならば、フレアスカートというのもある。シフォンスカートと何が違うのか。

分からない。似て非なるものかもしれない。同じかもしれない。だけど種類を沢山出せば出すほど、多様性があるように見えて、人々はそれぞれに対してありがたがってくれる。商売のバリエーションも広がる。様々な名称が、古い新しいに関係なく日々輩出されている。

それはいわば無限性。この無限性こそが世の中の醍醐味と言えるかもしれない。だけれどもその無限性の中のほんの一握りにしか個人の力では出会えない。世の中の切なさと言えるかもしれない。

20180527(日) 混雑しすぎた人体展。対応した相手によってこちらの態度も変わるという当たり前

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー、マカロニグラタンピザ
 
【昼メシ】
・上野/国立化学博物館ハーブガーデン
・上野/居酒屋「活鮮市場 上野弐号店」
 
【夜メシ】
・家/菓子、チーズ、酒
 
【イベント】
国立科学博物館「人体展」、アメ横、西新井温泉、大相撲夏場所千秋楽録画視聴
 
 
【所感】
■なぜ博物館に行くのか
今日は毎週日曜恒例の鍼治療がない。しかしその分朝早くから出掛けられることもあり、上野公園の国立科学博物館で開催中の「人体展」を見る予定を立てていた。

「人体展」。聞けば連日大混雑で、晴れの日なら2時間待ち、大雨の日ですら40~50分待ちは当たり前という状況が続いている模様だ。実際、先日大雨の中を出向いたところ、40分待ちと言われて引き返してきたばかりだ。一旦勢いが付いてしまった以上、展示終了まで混雑が解消されることは二度とあるまい。正直、そんな展示会はスルーしたい。あまりに混み過ぎると、内容やクオリティに関わらず満足度は激減するものだから。

その一方で、やはり一度は観ておきたいという消せない気持ち。そう思うのは、純粋に興味をそそられるからか。それとも「観た」という実績が欲しいだけか。SNSにUPして見栄を張るのが目的か。「ヤバいほど行きたい」と目を輝かせるのか、「行かないとヤバい」という焦燥感にも似た心境か。どちらに比重が置かれているのか。美術館なんかもそうだけど、この手のイベントに連日押し掛ける連中の真の目的は何だろう。そんなことをよく考える。

ただ理由はどうあれ、「観たい」という欲求があり、開催期間が残り少なくなってきたという現実もあるからには、結局のところ乗るしかない、このビッグウェーブに。
 
 
■思い込みは外れた時のダメージが大
それにしても、定期の鍼治療がないというだけで激しく募る不安。このまま行くと、前回の治療から丸1週間の間隔が空く計算になり、週2回の治療を常としていた自分から見れば恐怖。良い状態の時なら週1間隔でも持ち堪える自信はあったが、今はむしろ悪い状態なので余計。ほんの少し前まで感激するほど快方に向かったのに。

数週間前、長きの停滞期間を経て容態が急激に回復してきた。ここまで来れば後はもう上昇するだけだと、二度と転落することはないだろうと、そう思わせるだけの好感触が確かにあった。2年間治療を受け続けた甲斐があったと。日々ストレッチや筋トレを並行して行った努力が報われたのだと。確信的なインスピレーションだった。

のに、舌の根も乾かぬ内にその絶対的自信があっさりと覆る。ホント適当なインスピレーションだなと、むしろ自分の分析力の無さに失望した。根拠なく「天啓を得た」とばかりに一方的に思い込むことの危険さ、そして虚しさが滲み出た出来事だ。

ポジティブ思考も時には大切。しかし、あまり自信を持ちすぎると逆方向に行った時のショックもデカくなるので気を付けた方がいいだろう。かと言って、いつまでも「もう二度と這い上がれない」などとネガティブ思考に徹し続けるのはさらに下策。良くなるものも良くならない。よって、バランスよくネガとポジとを使い分けることが重要。決して暴走せず、だからとて退は決してしない、という。しかし…、

事象を冷静に見つめた上で適度な前向きさを持つことは言うほど簡単ではなく、むしろ相当ハイレベルな調整能力だろう。その調整能力を持続するにはまず健全な精神を保ち続けることが前提だが、その健全な精神こそが得難い資質だからだ。健全であろうとする姿勢はある意味荒行、自然への逆行。精神に激しい負担が掛かる。その自然に逆行した荒行を、自然な精神で行うのが既に矛盾。よって、ネガとポジの両立も矛盾していることになる。その矛盾を実践しなければならないのだから、全くもって世の中は世知辛い。

差し当たって今回痛感したこと。今後は、いくら自分の中で腰痛が劇的に軽減したと感じても、決して舞い上がらず、「後は良くなるだけ」などと根拠のない自信は持たず、泰然自若としてその時その時の状態を受け入れつつ、運動など毎日のルーティンも淡々とこなす弾力ある腰痛生活を送るよう心掛けたい。期待して裏切られるのはもう沢山だ。
 
 
■朝メシのボリューム、出発時刻、いずれも計算違い
理由はどうあれ、朝早めに出発して国立博物館の「人体展」を満喫するのが当初の予定。しかしそれなりに待たされるのは想定の範囲内で、見学が終わった頃には昼メシ時を大幅に過ぎているだろうことも容易に予想できる。そこまで腹が持つ程度に朝メシは軽く食っておいた方が無難。ただし見学が終わった後は飲み屋で食事する予定だから、あくまで軽い朝メシを。

という流れから、朝メシを摂ってから出掛けることにした。空腹がもたらす苛立ち、凶暴化。決して侮れない。イライラ、罵声は当たり前、酷くなれば猛獣のごとく襲い掛かってくる場合さえ有り得る。理性を纏った人間とて、本質的には一個の猛獣。「腹が減っては戦が出来ぬ」という格言は、文字通り人間が戦う本能を宿した生き物であることを証明している。ゆめゆめ軽視するなかれ。

暴動が起きない程度の食事量ということで、冷凍庫にいくつか保存しているはずの食パンをトーストして食うという手筈になった。しかし実際に冷凍庫を開けると、食パンが一枚しかなかった。薄っぺらい食パンが1ピース、そこにあるだけだった。

トースト1枚を2人で分ける。当然おかずはない。さすがにそれは…。バターで味付けすれば少しは…。いやそういう問題ではなくて…。このままでは内なる猛獣王が起きかねない。しかし事実、1枚しかないし…。

その時、一昨日あたりに嫁が勤める店からおすそ分けで貰ってきたグラタンの残りが少量あることに気付く。グラタン単品なら侘しいものだが、それをトーストの上に乗せてピザ風に調理すればどうだろうか。華やかかつボリューミーになるのではないか。早速その案を実行し、オーブントースターで焼いた。

すると、予想よりもアツアツで厚みのある、いかにも美味そうなマカロニグラタンピザトーストが出来上がった。これならば、2人でトースト1枚分でも腹持ちしそうだ。なかなかのアイデアであり応用力だと感心したものである。

しかし、アツい朝メシを食って気が緩んだのか、昨日かなり遅くまで夜更かししたせいか、テレビを観ながら一休みしている内に、つい寝入ってしまった。起きてからも動きは緩慢に。そのまま少しずつ時間は過ぎていき、結局出発したのは11時頃。鍼治療に行ってから行動開始するのと同じくらい、いやむしろそれよりも遅めになってしまった。

より早めに動き、より前から準備する。口でそう宣言しながらも、事実としては舐めていたのかもしれない。本当の意味で危機感を持っていないのかもしれない。「人体展」が見れなくとも死ぬわけじゃなし、という気持ちが底にある。その気持ちが悪い意味での計算高さとなって、本来せねばならないはずの行動を阻害する。危機感を持っていればテレビなど観ないし、一寝入りしたりもしない。そもそも夜更かしすらしないだろう。そうしない俺等は、結局のところまだまだ甘かった。

家を出て、昼頃にようやく上野公園に到着した。
 
 
■上野公園は五月晴れで人多し
前回出向いた大雨の日と違い、今日の上野公園は晴天。まさしく五月晴れと言ってよさそうな天候であり気候だ。当然、客足も多い。だからこそ、尚のこと今日の目的である「人体展」も一層混雑するのではないか。行列に並んで長時間待つことも想定し、公園入口すぐの東京文化会館でトイレを借りつつ一息ついてから、国立科学博物館へと向かった。

ちなみに東京文化会館は、主にオペラやクラシック、バレエなどを開催するホール。エントランスホールはかなり広くて人もそれほど多くないので、気持ちを落ち着かせるには結構役立つ場所である。

こうして国立科学博物館へ到着した俺等だが、予想通り「人体展」は長時間待ち、かつ会場も混雑しているらしい。チケット有りで90分待ち、チケット無しで100分待ちとのことだ。そんなに待つのか…。そこまで長時間なのは、大分昔アドベンチャーワールドに行ってパンダの赤ちゃんエイヒンとメイヒンを見るために並んだ時くらいしか覚えがない。そこまでの価値があるのか?

そもそも収容人数のキャパを超えてるんじゃないか? テレビなどでも精力的に宣伝したりしてたし、客を煽りすぎたからこうなる。居酒屋の呼び込みに釣られて店に入ったのに満席で座れなかったことが判明した時の理不尽さを客が抱きかねない。じゃあ呼び込みなんかすんなよ、と。

そのくらい「人体展」の会場内は混んでいた。正直、ストレスの方が勝った。
 
 
■整理券という手法
そのストレスについては後で述べるとして、まずは100分待ちを許容するか否か。また後日改めて訪問したとしても多分同じ状況だろう。いやむしろ開催終了日時が迫っているだけに、今後さらに混雑度は増すかもしれない。結局、いつ行っても同じだ。ならば覚悟を決めて並ぶべし。今日でこの不毛な待機生活を終わらせる。

意気込んでチケット売り場に並び、「大人2枚」とチケットを購入。そのまま進むと、係員の男性から整理券を渡された。その整理券には「14:00~14:15」と書いてある。つまり今すぐは入れないが、14:00~14:15の間に来てくれれば会場入り出来るという確約書のようなものだ。時間指定で会場入りを保証してくれるのが整理券のメリットだ。

しかしデメリットもあるな。整理券は一見、間引きによって混雑を解消しているように見えるが、本来来場する客の総量は変わらない。しかもいくら間引きしたところで、時間制限がないのだからと一つ前に入った客達が会場内に滞留しているところに次の客達が後から後から押し寄せれば、会場内はどんどん混み合い人でギュウギュウになるという結果は変わらない。根本的解決にはならないだろう。

具体帝に言うなら、俺等の整理券の時間帯が「14:00~14:15」ということは、続く集団は「14:15~14:30」「14:30~14:45」「14:45~15:00」という順序になるはず。つまり15分刻みを1ブロックとして整理する。その1ブロックの定員が10人程度だったらいいのだが、規模が違う。100人規模だ。つまり15分ごとに100人の人間が入ってくる。15分程度時間をずらしたところで会場内の前方は詰まっていくだろうし、そうなると当然後方がつかえてくる。結果、前にも後ろにも進めない大混雑が起きる。目に見えているだろうに…。

だが、来場した客を全て収容しなければいけないのも会場側の責務。その点を第一優先にしていた感はあるな。言い方を換えれば「チケットを売っちまえばもう後は知ったこっちゃない」という売りっ放し状態にすら見えた。それほど今回の「人体展」の混み方は異常だった。いや、不快な混み方だった。それも後で後述するが…。

いずれにしても、整理券に記された「14:00~14:15」の時間帯までは何も出来ない。現在12:10頃。2時間も時間がある。最初入口に書いてあった『100分待ち』ってのはこういうことだったんだな。係員は「常設展でもご覧になって」とか「レストランなどもあります」とか、そこで時間を潰せばいいじゃん?的な軽-い感じで言うけれど、何回か観たことのある常設展で2時間も潰せるわけないだろ。メシだって食わないようにしてるし。

だったら国立科学博物館の外に出させてくれよと言いたいが、出てはダメ、博物館の敷地内だけで過ごして下さいとかもう二律背反。入りたいのに入れず、出たくとも出れず、入るのも出るのもダメだと言い放ち、「何もすることがない状態で時間を潰す」ことを強要され、だからと言って助力も助言もなく「あとは勝手にやってくれ」とばかりに放置。整理券を渡したら、もう仕事は終わりとでも言わんばかり。これも整理券のデメリットであるな。

つまるところ、それだけ客が多かったということになるが…。そもそも昔は整理券なんてシステムじゃなくて、延々と行列に並んでいたような気がするが。普通の行列の方がマシだと今日は思った。時間潰しがなかなかに難しかったから。
 
 
■時間潰し
与えられた2時間。いや押し付けられた2時間を、いかにして潰すか。鉄板だがまずは「常設展」に行くしかない。

「常設展」は、大型恐竜の骨格標本から、ネアンデルタール人やクロマニョン人の髑髏など多数の展示物を踏まえながら、当時の気候、風習など生物や人類の歴史を学べる高度な展示施設だ。超特大の亀の祖先「アーケロン」の骨格標本は迫力満点。子供にも人気があるし、何度行っても新鮮な発見があった。

しかし、一から気合を入れて観ようというほどではなく、結局20~30分で見学が終わってしまった。あと1時間半も一体どうすればいいのか。

それより少しだけ腹が減ってきた。朝少し食ったものの、上野入りしたのが昼過ぎで、14時にならないと会場に入れないというかなり遅れがちな時間進行を考えたら、もう一度何か口に入れた方が良いかも。しかし、レストランで食うほどガッツリいきたくはないし…。

悩みながら館内を見ていると、屋上に「ハーブガーデン」という屋上テラスがあるらしいことに気付く。そこで軽食の屋台もやっている感じだ。これはいいかもと思い、その屋上テラス「ハーブガーデン」へと足を向けた。

「ハーブガーデン」は、その名の通りハーブを中心に植えた都会風の庭というところか。ベンチや屋根付きテーブルもある。休息するには十分だろう。さらに軽食を売っているキャンピングカー風の屋台が1店舗あったので、早速食い物と飲み物を調達しようと列に並んだ。キッチンカーという奴か。

看板を見ると、食い物はピザと、焼きそばと、アメリカンドッグが頼める模様。唐揚げとフランクフルトもあったが売り切れのようだ。小さく「かき氷はじめました」という貼り紙もあった。焼きそばにしておこう。飲み物はコーヒー系と紅茶系と、ジュース系と、あと缶ビール。当然、缶ビールだ。オーダーするものが決まり、順番待ちをする。前には5~6人の客が既に並んでいるが…。

遅い。前の客が全然終わらない。全然列がはけない。キッチンカーの中には姉ちゃん1人だけ。オーダーから金銭の受け渡しから食い物を温めたりドリンクを入れたりといった調理全般いたるまで全て彼女1人でやるのだろう。それは大変だと思う。しかしやり様があるだろ。早い奴は早いんだ、こういうのは。

本当に列が進まなすぎる。俺は「ダラダラ動いてんじゃねえのか?」とイライラし始める。ただ嫁が見るには、一つ一つの動作は案外キビキビしているとのこと。でも総合的に遅いのは嫁も理解しているようだ。嫁曰く「動線が悪いのかな?」と、専門的用語を挙げて分析する。そうかもしれないが、1人なんだから最速で動くしかないだろ。上野なんだから客もそこそこ来るはず。それでも1人なんだから、見合ったスキルと素早さを身に付けるのが彼女の義務じゃないか。甘えたことを言ってちゃいけない。そう考えて見ると、キッチンカー内に納まる彼女は何となく甘えていそうなツラだ。

それは客への対応にも現れている。前の方に並んでいた客がかき氷を頼んだが、どうも「はいかき氷ですね」と素早く復唱し即座に行動に移るような真剣味がない。かといって笑顔もないが。笑顔がない接客なんてむしろ客にとって害でしかないと、なぜ多くの店員が気付ないのか。そして付かないことが何故恥ずかしくないのか。結局、かき氷1人分のオーダーを受けてから客に差し出すまで5分くらい掛かってたな。こんなに遅いのはむしろ初めて見た。

それと、前の客がピザを頼んだら「15分掛かる」とか平気で言ってのける。1から本格的に焼くつもりかと。そもそもにして、こういった簡易的な屋台は素早く出てくるからメリットがあるのであって、屋台で15分待ちなんて有り得ないから。

そんなこんなで1人の客に一体何分掛けているのか知らないが、遅々として進まない中、満席だった屋根付きのベンチが空いた。太陽の光にジリジリと焼かれるこの晴天の下、屋根付きの日陰に隠れられるのは有り難い。嫁はすかさず「ビールとかは私買っとくからあの席取りに行って!」と俺に席取り係を任命。俺は弾かれるように飛び出し、早足で空いた屋根付きベンチへと向かって滑り込むようにドッカと腰掛けた。

その5~6秒後。同じくこの席を取ろうとした客なのだろう。俺のほぼ後ろを歩いてたっぽい男の子が、少し向こうに居るママに向かって「取られちゃったよ~」みたいな声で叫んでいる。「いい、いい、いいからこっちに来なさい」とママ。屈強かつ修羅の形相をしている俺を見て、近付かない方が無難と考えたのだろうか。

それならそれでよしだが、こういうのは早い者勝ちだ。相手が女子供だろうが譲る義務はないし、その気も全くない。周囲の目とか、ありもしない聖人君子増をあるように見せかけ、それがなければダメなんだと思い込ませるがごとき周囲からのプレッシャーは、結局のところ気のせいでしかなく、それをしないからと言って殺されるわけでも何でもない。

それでもついやってしまう輩は気が弱すぎるのだ。そして優しさの意味を履き違えているのだ。感情論では片付けられない。優しさの前に平等がある。優しさを与える権利はあるが、優しくされる権利も有している。節度というものがあり、限度というものがある。無制限に振りかざすだけが優しさじゃないと知るべきだ。

いずれにしても、日陰の席をゲットした。嫁の瞬間的判断が勝ったのだ。間一髪の差で競り勝った俺は、取り損ねた子供の視線を無視するかのように、前方を鬼のような目で凝視しながら脚を組み、いかにも近付きがたい雰囲気で席をキープし続けるのだった。

座って嫁を待つこと10分程度。見れば、屋台の列も少しずつだが捌け、いよいよ嫁の番になった模様。予定では焼きそばと缶ビールだが…。

数十秒後、嫁が困ったような苦笑顔でこっちに早歩きで戻ってきてしまった。あれ?何で何も買わずに列を離脱しちゃうの? 手には何も持っていない。一体何が起こったのか。理由があるはず。

聞けば、「缶ビールがない」とのこと。しかも売り切れではなく「日曜日はビールはやってません」と店員に言われたようだ(本日は日曜日)。ハァ? と俺も流石に思う。看板に「缶ビール」ってちゃんと書いてあるのに。無いなら紙で覆うなりして隠しとけよと。というか本当に日曜日だけなのか? 缶ビールの存在自体ホントにあるのか? などと根本的な疑いすら湧き上がりかねない。

というか、その失態を恥じてもいない、つまり自分のしでかしたことについて何とも思っていない。それはつまり客のことを何とも思ってないということ。客を舐めてるということだ。何のために20~30分待ったのか。待った挙句、そんなゴミのような対応をしてきたのかと。

その不手際が許しがたいので、こんなとこからは買いたくないと嫁は手ぶらで帰ってきたとのことだ。なるほど、あれだけ待たされて「日曜はありませんが何か?」などと平然と突っぱねられれば誰だって怒る。納得できる行動だ。

だが、缶ビールは無いとして、焼きそばはどうした? 買わなかったようだが。

先の缶ビールの対応で、店そのものを嫌いになったのも理由の一つ。しかしもう一つ、どうやら嫁は店の清潔さを疑った模様だ。衛生観念に問題があるのではないか、と。

というのも、嫁の前の客がホットドッグを注文した時、店員はパンを素手でがしっと掴み、ソーセージを載せた。つい先ほどまでレジで金を掴んでいた手で、だ。手も洗わず、アルコール消毒もせず、トングを使うなど道具もせず、いわば汚れた手でそのままパンを掴み、客に差し出すのだ。そんな行為を客の前でやって、何とも思っていないのだ。

焼きそばは最初からパックに入っているから関係も少なそうだが、そんな食料を扱う店員にあるまじき無頓着さを、人が見ている前で平気でやってのける。普段からそういう姿勢なのだろうと思われても仕方ない。そういう人間から食い物を素手で受け渡されたくはないよな。

以上の理由から、結局焼きそばも缶ビールもゲットできなかった俺等。自販機で買ったジュースを飲んで空腹を満たしたのである。いくら放っておいても客が来る超好立地・上野とはいえ、いくらなんでもクオリティが低すぎる。市販のオニギリとかサンドイッチとか持ち込みたくなっても仕方がないわ、これじゃあ。今日は嫌なことが多い。

そういえば、俺等が座った日陰の席の隣のテーブルに、親子がいた。親父と、子供と、恐らく母親と、祖母か。子供がうるさかった。叫び声のような歌のような奇声を上げながらウロウロしている。さらに親父の方は、注意するわけでもなく、「あの屋台のオレンジジュース350円か、高っ!」とか、「コーヒーは・・・高っ!」とか、「モスバーガーの方が全然安いわ!」(どういう基準だ?)とか、「かき氷は…安っ!」(全然安いと思わない)とか、全くもってどうでもいい話をデカイ声で延々と喋り続けたかと思うと、今度は自分の昔の武勇伝自慢らしきことをマシンガンのようにトークし始める。デカイ声で。その武勇伝に妻も母も誰もリアクションしないのだから、一体ここはどんな空間だよと。とにかく声がデカくて耳障りだった。

その上さらに、親父は喋ってる間ずっと貧乏ゆすりをしている。それが非常に目障り。聴きたくなくても耳に入ってくる。見たくなくても視界に入ってくる。この手の輩は本当に迷惑だ。喋りにも身体にも落ち着きが無さ過ぎて、とにかく目障りだった。全くもって今日は嫌なことが多い。

まあ、一応時間は潰せたが、こんなにストレスの溜まる場所ならハーブガーデンという屋上テラスにそこまでの価値は見いだせないというのが本音だった。
 
 
■人体展は「混みすぎ」の一言に尽きる
そしていよいよ本来の目的「人体展」。「14:00~14:15」と記載された整理券を手に、14:00ピッタシに入り口前に向かったのだが、既に50~60人の客が前に並んでいた。そんなに見たいのかよコイツら。と只ならぬ情熱を感じ取る。同時に、こういう連中が多く居たんじゃ、中はもっととんでもない混み具合なんだろうな、とも予想する。

予想通り、展示の開始場所に来た瞬間、「終わったな」と思った。

この手の博物館や美術館などの展示の手法と言えば、まず大分類として第1章、第2章、第3章といった感じでの章分けが定番。各章ごとにデカいパネルがあり、そこにつらつらと説明文が書いてあるという体裁だ。そこから各章ごとで細分化されていき、関連する展示物を飾る。その展示物にも説明パネルが付くわけだが。

その第1章のパネル前から既に人で溢れていて進めないのである。かつ、その奥をチラッと見たが、奥の方はもっと人が押し込まれている雰囲気で、人の流れが完全に止まっているとすら見える。ゆったり見るなんて当然無理だし、ザっと概要を把握することすらできないかもしれない。

とにかく展示物に近付けないのだ。展示物が視認できる最前列の端っこで列を為して待っていても、列は止まったまま一向に進まないから展示物に辿り着けない。かといって、後ろから覗き込もうとしても、何重にも人の壁があるためちゃんと見れない。190cmのバスケット選手でもない限り後ろからの鑑賞は殆ど無意味だろう。

当然、パネルも読めない。読めるポジションを確保できない。確保したとしても後から後から人が押し寄せてくるから、ずっとそこで立ち止まるわけにもいかない。後ろから押される形で前に行く、しかし前は前で詰まっているので進まない。しばらく立ち往生しかない。本当にバカバカしい。

この手の展示は、パネルの文字を読んでこそ理解も深まるというもの。それを読めないまま進んだところで理解が深まるはずない。だが現実には理解どころか目を通すことすらままならないのだ。一体この押しくらまんじゅう状態はいつまで続くんだとストレスだけが募るという悪循環の中に居たという感覚が一番強かった。俺等は音声ガイドを借りたのだが、ある意味この音声ガイドがあったから、パネルを見ずとも概要がある程度は理解できたのかもしれない。

そういう状態の中でも、たまに自分の理解が最優先とばかりに最前線にずっと立ち続け、気の済むまでパネルの字を読み、展示物を嘗め回すように見る客もいる。複数客の場合は、その最前列で批評なんかを交わしたりし始める。美術館などでもこの手の輩は一定数の割合で居る。あと水族館とか。「さっさと行けよ」と怒鳴りたくなるのが本心だ。自分のことしか考えていない典型だと。

しかし、本来博物館や美術館ってものは、そういった輩のように一つ一つじっくりと見て、読んで、自分の身に沁み込ませながら、知見を深めながら進んでいくのが正しい鑑賞方法。この「人体展」も、華やかではないが心臓や肝臓、腸など内臓器官の働きなどを一つ一つ説明しつつ、標本も展示し、そこから筋肉や頭脳や神経系などにも分野を伸ばし、総合的に人体の神秘を一般の人間にも分かりやすく説明しようという意欲作だと感じられた。一つ一つじっくりと見ていけば、本当に興味深いテーマだったろう。

しかしながら、いかんせん混雑しすぎだった。多分、全容の10分の1も理解できなかったと思う。ここまで頭に入らなかった展示は、少なくとも美術館系では一度も無かったと思う。過去の同じく国立科学博物館で開催された大人気シリーズの恐竜展でも、ここまで酷くなかった。

会場には子供も結構な数が居た。しかしハッキリ言って、何一つ見えなかったのではないか? 何しろ前に行けないのだから、背の低い子供は見る術がない。肩車も禁止されているし。子供だからと言って、前に詰め寄る大人達は避けてもくれないし場所を譲ってもくれない。子供への配慮とか優しさとか論ずる状態ではなかったと。大人達も自分のことで精一杯で、全く心の余裕がなかったのだと思われる。いつもはこの手の場所で子供が騒いだりすると「このクソガキが」と憎たらしい気持ちになるが、今回ばかりはさすがに子供達が不憫すぎた。

だが何よりもムカついたのは、そんなのっぴきならない状況なのに、係員は只でさえ前に進めず後ろにも戻れず、展示物も文字も殆ど見られない状態が続きイライラが募る客達に向かって、「立ち止まらないで進みながらご覧下さい~」とただただ機械的なアナウンスを繰り返すだけという状況だ。

言いたいことは分かる。人が流れていかないと詰まってしまう。だけど、ここまで精緻に作られた内蔵の模型や、難しい専門用語が散りばめられたパネルや、解剖学の偉人を紹介した気合の入ったレイアウトがあるのに、それをほぼスルーして先に歩け、という。別に理解しなくていいから、とにかく先に進んでくれと言っている。まるでそこらの景色を眺めるかのように、展示物をただ目で追うだけで終わってくれと、そう言っている。そりゃそうだけど、気持ちは十分分かるけど、あまりに客の気持ち考えない無神経な言葉だ。気持ちが籠ってないのがありありと分かる。

あと、「最前列に並ばなくても、後ろからでも、逆側からでお、どの展示からでも好きに見れますので、一か所に固まらないで下さい」的なことも言っていた。そのアナウンスもこういった展示会では恒例だ。でもその後ろから見るっていうのが出来ないから最前列に並ぼうとするんだって。別の展示を見てからまた戻ればいいと言うけど、人の波から外れると、そこから前の展示に戻るには人の波を逆行しつつ、割り込まないといけない、結構ハードで疲労する動きなのだ。やりたくてもやれないのだ。という客の気持ちも汲み取ろうとしない係員のアナウンスが、今回はいつもに輪を掛けて鼻に付いた。みんな分かってんだよ。分かってて出来ないから仕方なくやってんだよ。それを正論の上っ面だけを切り取って無遠慮に言葉として投げかけてくるのは本当に腹が立つ。

とにかく人が多すぎた。無秩序過ぎた。自由に動けず、他の客にストレスを感じ、係員にもストレスを感じ、結局この空間そのものに嫌悪感と徒労感を抱き、だから肝心な人体に関する知識や知恵もそこまで頭に入って来ず、ゆえに理解も乏しいまま、漠然と全体像だけを追った展示会だった。

嫁は「面白かった」という。確かに面白かった。テーマ的には。だけど展示会に満足したかと言われれば、不満ありまくり。ここまで心が逆立った展示会も久しぶりだった。
 
 
■上野公園はいつでも催し物がある
ストレスの多い「人体展」をようやく終えると既に夕方の16時。2時間くらい見学していたのか。疲れた。そして腹減った。アメ横界隈の飲み屋にでも飲みに行くとしよう。

その前に、上野公園の噴水前広場でやっている催し物を少し見学。この噴水前広場は一年中何かしらのイベントをやっているから飽きない。今回は、「さつきフェスティバル」と陶器市?みたいなイベントをやっていた。

「さつきフェスティバル」に飾ってあるさつきは、どれもが色鮮やかで、中にはピンクと白とが混ざった特殊配合ぽい花びらを持つさつきも多く見られ、栽培者の熱意が伝わってくる。花絡みのイベントに来る年齢層は高めになりがちだが、基本的には全年齢対応と言っていいだろう。花は綺麗だから。年齢に関係なく等しく人の心を打つ。それが花というもの。

そのさつき達の中で、一際見事なさつきが展示されている。見れば、「最優秀賞」と書いてあり、何かしらの賞を取ったさつきと判断できる。その最優秀賞のさつきの前では、年配の男性1人と女性が2人、カメラマンに記念撮影をしてもらっていた。栽培者とその家族だろうか。そう思い、彼等が記念撮影を終えた後、そのさつきを鑑賞していた。

すると、その記念撮影3人組の中の1人の女性が、「このヒト、このさつきを栽培してるヒトなのよ♪」と、俺に向かってかなり馴れ馴れしそうに話し掛ける。やはりそうだったか。「マジすか、スゴイすね!」と俺はまず笑顔で返しておいた。実際、ここまで見事な栽培をするのはすごいと思うし。

栽培者当人と紹介された初老の男性は、「大したことないですよ」と照れ臭そうに笑いながら、満更でもない表情をしている。やはり、自分が育てた花を称賛してくれる相手が居るのは嬉しいのだろう。花でも作品でも、何でもそうだ。支持してくれる相手が現実に目の前に居る。応援してくれる人が実感できる。それは力にこそなれマイナスいはならないはずだから。

そして男性は結構お喋り好きだった。どうやって育てるのか、ここまで綺麗な花を咲かせるのに何年くらい掛かるのか、鉢はどこで買うのか、など思いつくままに質問してみた俺だけど、その質問に一つか二つ豆知識を追加する形でレスポンスしてくる。嬉しそうな顔で。何かずっと喋っていたそうな感じだ。向こうで嫁が待っていたので5~10分程度話してからその場を離れたが、男性は終始嬉しそうだった…。

そんな俺の対応に対し、嫁が「あんなに話を聞いてあげちゃって、優しいねーw」と半ば呆れ気味に言ってきたが、既に老人に差し掛かった年齢の男性が見せる、少年のような瞳と笑みを見せられたら、そんな簡単には引き下がれないだろうな。いや、引き下がってはいけないのだと、ロマンある人間なら分かってくれるはずである。

とりあえず色々聞いたところ、このさつきは100年とか200年ものらしい。樹齢200年くらいのもの樹木に、新しい枝を継ぎ足ししたり、という感じか。その男性の父親から譲り受けたさつきだそうだ。その父親も、さらに彼の父親から譲り受けて。代々伝わるさつきの樹木だという話だったと記憶している。なかなか壮大な話。そしてロマンに満ちた話ではないか。

また、今回は5月に展示されたが、5月にちょうど見事な花を咲かせるために1年前くらいから調整しながら育ててきたとか、そんな話も確か聞いた。愛情がなければできないことである。色々とためになったとも言える。

ふと立ち寄った「さつきフェスティバル」で、ふと短い会話を交わした初老の男性のことを、俺は後々まで忘れない。

もう一つの陶器市では、六角箸を土産に買ってさっさと終了。アメ横の飲み屋へと繰り出す。時刻は既に16時半に差し掛かっていた。
 
 
■アメ横の活気と飲み屋の群雄割拠
アメ横は相変わらずスゴい人だ。しかし花見時期などのピーク時ほどでもない。それでもメイン通りや立ち飲み屋が乱立するエリアの人の行き来はすさまじい。そんな中、外に椅子を出して飲むから、いいのだろう。その「いかにも上野」という雰囲気がいいのだろう。大統領をはじめとする立ち飲み屋群は今日も大盛況。

そこから少しだけ離れた「活鮮市場」の弐号店で今日は飲んだ。外に椅子は出せないが、刺身をはじめとする魚料理が非常に美味い。店も出来たばかりらしいので綺麗。そこで美味い魚を食いながら、TVで大相撲夏場所千秋楽を見物しながら上野の楽しい飲みを終えた。鶴竜、優勝おめでとう、と…。
 
 
■温泉と再度の大相撲視聴で締める
上野の後は、西新井温泉でしっかり汗を流し、飲み過ぎた酒の酔いも覚まし…。久々に岩盤浴を受けたからか、汗が異常なほど流れたのは計算外。しかし腰痛が酷くなっているのも計算外。次の鍼治療まで何とか持たせなければ…。

帰宅後、酒を飲み菓子をツマみながら、今日飲み屋で見た大相撲夏場所千秋楽の全容の録画した分を全て最初から見ていた。栃ノ心は大関確定。優勝した鶴竜は白鵬よりも安定感を備えつつある。阿炎はあと一歩だがまあ良くやった方。豪栄道と高安は本当に不甲斐なく、もう鶴竜、栃ノ心の時代到来でいいんじゃないかと思った日曜日の夜のこと。自分自身の時代はいつ来るのだろうか、本当に来るのだろうか、とも思った夜のこと。

いつもより結構酷めの腰痛と、時代に取り残されそうな不安感とでなかなか寝付けない俺は、初心に返る意味もこめたのか、本棚にある「ぼくの地球を守って」を取り出し、読み出した。なぜまた「ぼく地球」を。転生して今度こそ生まれ変われということか。

何だかんだと「ぼく地球」はいつ見ても、何回読んでも名作だが、そのせいで午前4時まで夜更かししてしまった。これで月曜の仕事は居眠りとの戦いが確定だ。分かってるのに、つい夜更かしする悪い癖。地球を守るより先に、ぼくの睡眠時間を守ってと言いたくなる。

20180516(水) サンデーもマガジンも、マクドナルドハンバーガーも、世の中はレギュラー争奪戦だらけ

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・職場付近/自作オニギリ、セブンイレブンカレーパン
 
【夜メシ】
・家/マクドナルド持ち帰り(レギュラー争奪オーディション」シリーズ:たまごダブルマック、てりやきチキンフィレオ、ポテトS誕生日無料)、冷奴、プロテイン、手摘みアロニアのお酒(新潟土産)
 
【イベント】
仕事
 
 
【所感】
■掃除当番に割く時間
今日は会社の朝の掃除当番なので、いつもより5~10分早めに家を出発。別に普段通り出ても職場には早く着くが、水曜日は駅前コンビニで少年マガジンとサンデーを立ち読みする時間も必要。掃除プラス立ち読み時間を加味して家を早く出る。

掃除当番の人間は、始業してから掃除してもいいことになっている。どんだけぬるいルールなんだと呆れ果てる。真っ当な社会人なら、皆が席に就いている中で掃除機をかけたり雑巾がけをしたりすること自体が他の従業員にとって迷惑で目障り。そう懸念するのが真っ当な神経の持ち主だし、皆がデスクで既に仕事を始めているのを尻目に1人だけ掃除している構図はみっともないし、いかにも空気に締まりがない。

掃除なんてものは営業開始前にチャッチャと済ませるのが当たり前。その当たり前というタガを外すから堕ちるところまで堕ちる体質になる。結果、掃除をサボる輩が出てきたり、そもそも始業時間になっても全く出社しないなんて光景が日常茶飯事と化す。遅刻して悪びれず、何事もないかのように装う。反省もしない。だから何も改善しないどころか、悪くなる以外に道はなくなる。

俺は掃除当番の時、同時当番じゃない時も大体10分前には着いているが、これでも遅いくらいだ。5分前行動というのは所詮イメージ的な指針であり、体感的には10分~15分、いや20~30分前に着いても不自然じゃない。業種や職種にもよるが、時間ギリギリですら既にレッドゾーンを越えているという認識を持った方がいい。遅刻なんてのは論外だ。まったく今の職場はどうしようもないとしか言えない。

掃除を終わらせ席に就いても、事務所はまばら。時間ギリギリになってパラパラと来始めて、始業時間を超えてからも普通に出社してきて、もうギリギリとかそんな次元じゃない時間になって当たり前のように来る奴。そんな光景。見ているだけで苛立ちが募る。居るだけで殺意が沸く。ストレスを受ける対象は多々あれど、結局は人から被るストレスが一番多いし一番強い。だからどんな環境になっても、いつの時代でも、肝心要なのは人間、ということになるのだった。
 
 
■マンガ立ち読みに割く時間
水曜日のマンガ立ち読みに費やす時間は基本的に短い。今だと5分以上掛けないようにしている。大体3分少々で読み終わるか。完全な流し読み、そして飛ばし読み。なので内容をしっかり把握しないまま大体読み終わる。だがイメージ的な大筋はほぼ読み取れた感覚。文字を熟読せずともイメージで読者に訴えかけられる漫画の長所であり利点だ。

だが全ての漫画がそうだとは行かない。どれもがドラゴンボールのようにシンプルではない。だから短時間立ち読みの時は、イメージで読めそうなタイトルに偏りがち。文字数が多く説明を理解するのに頭を使う名探偵コナンなどはまず選ばない。じっくり読めば面白い漫画は腐るほどあるが、そのきっかけが日常生活のシーンにはあまりない。無意識にタイトルの絞り込んでしまっている。結果として可能性を殺しているのだ。嘆かわしい。

しかし時間が割けない、心の余裕もない。もっと自分のキャパが広ければなぁ…。と思いながら、マンガ立ち読みのためほんの束の間足を止める水曜日の朝。

まず最初に、マガジンの「はじめの一歩」をザッと流し読んで1分程度。一歩はてっきり連載終了と思っていたのに未だ踏ん張るものだからこっちも惰性で読まざるを得ない。今週は、最初圧倒していた速水が結局後半打たれてあっさりKOされ、一歩は何を思う?セコンドから選手への復活はあるのか?みたいな感じだが、一体何がしたいんだという展開で、ある意味安定の無軌道さ。一歩に対する情熱など今やゼロなのだが、無意識にページを開いてしまう。習慣とは恐ろしい。

次にサンデーを手に取る。一昔前はコンビニに1~2冊ある程度だったのに、最近ではマガジンと同じくらい置いてある印象だ。部数が増えたんじゃないか?

オキニだった「マギ」も大分前に終わったので、もはや手に取ることもないのかなと思っていたが、何だかんだと結局未だに目を通す日々。意外とそんなものだ。メインだった「マギ」がなくなれば別のマンガで埋め合わせし、いずれそれが次のメインになる。最高の彼女だったこれ以上は無いと言って次の彼女を作ったら、いつの間にかその乗り換えた彼女が最高と思うようになる心境と同じだ。最高とは言わないまでも、メインの立ち位置になるのは必須。人間は常に現在進行形の事物を中心に生きているからな。

よって「マギ」が終わっても、結局自分の中では大きな問題は起こっておらず、当時サブとして流し読みしていた「メジャー2nd」や「絶対可憐チルドレン」あたりが現在のメインとなっている。その2タイトルを読むために毎朝サンデーを立ち読みをしている。そうだ、立ち読みは必要なんだ。

と自分に言い聞かせている側面もあるかもしれない。コンビニに寄るための理由が必要なのだ。サンデーを手に取るための言い訳が必要なのだ、もはや特定のタイトルを読むためというよりも、「サンデーを読む」という動作をするために、後付けで幾つかのタイトルをピックアップしているような順序と言える。

多分、寂しいのだ。マンガ雑誌の立ち読みを除外する生活が。認めたくないのだ。サンデーを、マガジンを、ジャンプを読まない自分を。これが無ければ自分という人間を形作る重要な何かを失ってしまうような、そんな恐怖。

子供の頃から付かず離れず、でもずっと一緒だったんだ。半生、いや半生以上。それを辞めてしまうなんて、という。もはや理性以外の部分。少年時代からの長い付き合いであったものを、年を食ったからという理由だけで手放すのは今まで積み上げてきた青い記憶が納得しない。

捨てなければいけない習慣や感性もたくさんあるけれど、変わって欲しくないそれもある。どちらを大事にするか、日々がそのせめぎ合い。今までマンガというものはずっと身近にあった。そういう生活をしてきた。だからそれを捨てる、切り離すことに無意識にためらいを感じる。捨てた時、どう変わってしまうのだろうか、と。良い方に変わるのか、それとも悪い方に…。いや、良い悪いという話じゃなくて、それを判断するきっかけを作りたくない。引き金を引きたくない。だから無意識に回避しようとしているに違いない。

そんな逆説的な強迫観念の下で動いている可能性はあるにしても、立ち読みは自分にとってひと時の清涼剤である。今のメインとなった「絶チル」も「メジャー2」も、ずっと読んでいればやはり面白く感じる。無論、どちらも当時出ていた全巻を一気通貫で読んだことのある漫画なので、入りやすかったし。

この「昔から読んでいた」というのが重要だ。は今後も継続する理由としては大きなウエイトを占めるのが現実。しょせん物語の骨子が分かっていない状態で途中から入り流し読みをしても理解できない場合が多いし、なかなか続かない。

だから現時点で知らないタイトルをいきなり立ち読みしても、時間の無駄になりそうなので読まない。それよりは、やはりネカフェとか誰かの家なりで、一定の巻数をまとめ読みしたことがあるタイトルの方が、今後の立ち読み対象としては自然だろう。流し読みでも大筋が頭に入って分かりやすい。

最近だと、西新井温泉で読んだ「キングダム」とか「進撃の巨人」あたりが該当するか。大よその物語が分かっているので、現在進行形の連載から突然入っても頭に入りやすいし、抵抗も少ない。「キングダム」は、「嘘喰い」が終わってしまい木曜にヤンジャンを立ち読みする理由がなくなった俺にとって、今ではヤンジャンを手に取る唯一の理由だ。

最近連載が再開された「テラフォーマーズ」は、なぜかもう読む気がしない。パッと見、全く面白くなさそうなので。何故そうなったのかは知らないが。

いずれにしても、水曜日の朝のマンガ立ち読みは、マガジンはどうでもいいがサンデーの「絶チル」と「メジャー2nd」という理由がある限りは磐石。そのメインが連載終了した時、俺は「サンデーを捨てないで済む言い訳」をするためまた別のタイトルを見つけるのだろうか。
 
 
■マクドナルドに割くコスト
今日は嫁が夜メシの作り置きをしていないので、自分で何か買って食うことにした。

またはラーメン屋とか、どっかの飲食店とか、別のファストフード店で適当に食ってから帰るか。という気に最近なれないのが現状。外食が億劫というか。1人飲みはつまらない。かといって誰かを誘うほどテンションも高まらず、誰かに誘われても遠慮するのもありかもしれないなどと考え始める始末。何より外は喧騒が酷い。店の中も、街の往来も。その喧騒が最近どうも耐え難い。

結果、何か1人が気楽だなー、などという思考が浮かび始める。それで何も喋らずじっと無言で、下を向いたまま適当なジャンクフードなりを食うのが余計なエネルギーを使わなくていいかも。と段々に末期的。かつてそんな時期もあった気がするが、世界が広がることはなかった。特定のベクトルは深化したが、今はその深化させるための集中力に欠けている。それを取り戻すにはやはり外部から刺激をもらわなければ。

でも外に出るのは面倒で、外で食うのも億劫で、とメンタルの退化・逆行も厭わない。結構危険な流れだと分かっていても、やはり外で食う気はしない。「マックでいいや」。安易にそう考え、その他の選択肢を全て削除した。

実際、最近ではマクドナルドを利用することが結構多くなった。逆に言えば、他に思い付くバリエーションが極端に減った。それは発想が貧困になったということだ。
 
 
■マックの攻勢も要因か
しかし、マックを以前より多く使うようになった一番の理由は電子クーポンかもしれない。何かの拍子にマックのアプリをDLしたことがあったが、そこで割引クーポンが沢山あったので、つい使ってみたい気分になった。それがマック乱用の始まりだ。

しかもフェリカ対応なので、クーポンを選択したスマホを店の端末に置くと、ピロッピロッピローンッとメニューも会計も全部自動でレジに表示されていく仕組み。初めて見たとき「おおっ!」と思わず喝采した。本当に便利な時代になったものだが、クーポンの本来の効果とフェリカが持つスタイリッシュさやゲーム性を上手く掛け合わせた巧妙な戦略だと思う。

割引クーポンというのは思う以上に効果がある。店の前で直接配られれば、そのまま店に吸い込まれていく客も多いだろう。だが店の前ではない別の場所でもらっても効果は半減。わざわざ現場に行くのが面倒くさいのだ。また、仕舞っておいていつか使おうとその瞬間は思っても、紙のクーポンなので紛失しやすいし忘れやすい。クーポンなんてものは長期的に管理する代物ではなく、思い付いた時にちゃっちゃと使ってしまうべきもの。それ以外の場合、大抵ゴミと化す。

言い方を変えれば、配る側もゴミ化を前提としているから数撃ちゃ当たる作戦で誰空かれ構わず配りまくるのだろう。しかしそれは効率が悪すぎる。まず、どう考えてもその気がない人間に配るのは心底無意味。駅前でよく美容院の割引券を配ったりしている光景を見るが、まず使わない連中にもとりあえず配ったり、街頭のティッシュ配りも同じこと。ただ用意された数を消化するために配る。大半はゴミと化すのに。

だから、ゴミ化しない電子クーポンは秀逸。紙でないからかさばらない、邪魔にならない。落としたり破れたりすることもない。データとしていつでも取り出せる。そして電子データなので、どれだけ大量生産してもコストは同じ。電子だから使っても消えるわけじゃないから、誰にでも、何人にでも配れる。街頭での紙クーポン配りより、ばらまける人数も比較にならないほど多いし、配れる範囲も圧倒的に広い。

もちろん、電子クーポンでも使わない人間は使わない。使わなければゴミと化す。紙クーポンと同じだ。しかし使う人間は使うのであって、それもやはり紙クーポンと同じ。ということは、クーポンの役割とは、不特定多数に配布することで、それを使用する人間を炙り出すことか。本命を釣るための撒き餌か。

本命が釣れるのなら撒き餌は惜しまない方がいい。だけど抑えられるところは抑えたい。紙より電子の方がいいということになるだろう。使う奴は使うのだから、それを1人でも多く獲得するため、ばら撒きまくる、目に付きやすいように露出しまくる。

そういえば最近、特にネット上でマックの露出が増えたに思える。ネットを制する者は顧客を制す。TVの露出は減った気もするが、若年層やファミリーを主要ターゲット層に据えたマックとしては、重視するのはネットなのだろう。TVは切り捨てていい。

そんな思い切った決断が、現社長のサラ・カサノバによるものだとすれば大した手腕と言える。晩年マックの業績を悪化させ、超高額報酬で移ったベネッセもアゲるどころかむしろオトしにオトしまくって逃げるように去っていった悪名高い原田から当時マックの新社長として交代した時のサラは明らかに頼りなかったし、最初の頃は無能オーラを出しまくっていたのだが。

場数を踏んで鍛えられたのだろうか。有能な部下が支えているのか。かなり辛酸を舐めたはずだが、よく挫けずここまで来たものだと、結構俺はサラを評価している。最近、人気投票とかトーナメントとか、目まぐるしすぎるメニュー変更とイベント攻勢がかなり目まぐるしい気がしたが、それも客の目を飽きさせないよう、話題を常に提供するエンターテイナーとしての顔を重視したのかもしれない。

そのイベントや変わっていくメニューの中で、たまに良さそうなものがあれば、ちょっと寄ってみようかなどと考える。もしアプリがスマホに入っていれば、ふと思い付いた時にアプリを開いて気に入ったクーポンがあれば「お、ラッキー♪」とつい使ってしまう可能性は結構高い。何しろアプリなんていつでも立ち上げられるし、クーポンなんていつでも取り出せるので。まさに毎日店の前で紙のクーポンを受け取っているのと同じ感覚なのだ。

俺の中では、夜の倍マックだったか。パティが4枚になったりするボリューミーなバーガーが出ていた時期は結構胸熱だった。今回も同じようなノリでクーポンを見て、「レギュラー争奪オーディション」という名目のイベントでいくつか割引クーポンがあったので、とりあえず使ってみようかという気になったのだが、食う前までそのイベントタイトルの意味をよく考えていなかった。
 
 
■リーズナブルに見えるクーポン
今回のクーポンのメインは、たまごダブルマック、てりやきチキンフィレオ、マックリブという3つのバーガー。あとは通常のレギュラーバーガーやポテトやナゲットなど、いつもの品が対象となっていた。

俺は、いつもより腹が減っていたのと、たまにしか買わないのだからと、今回イベント対象のバーガーを二つ購入することにした。3つを吟味した上で、たまごダブルマック、てりやきチキンフィレオの二つにしておいた。たまご系はてりたまとか好きだし、てりやきチキンフィレオにしても、てりやきマックバーガーが大好物な俺にとっても馴染みやすい。そしてマックリブは、何かマズそうだったので。

というわけで、アプリ上のクーポンでたまごダブルマック、てりやきチキンフィレオを選択する。ついでにポテトSサイズが誕生日月の人は無料らしいので、そのクーポンも加える。一応5月生まれなので受け取る資格はある。チキンナゲット等はやめておいた。占めて710円。結構リーズナブルだった。
 
 
■店員三日会わざれば刮目して見よ
店に入ると、姉ちゃん店員が応対。最近よく見る若い姉ちゃんだ。ただ、見た目可愛らしいけど愛想があまりなくて言葉の歯切れもいまいちという印象が今までの接客であるから、気持ちのいい買い物は出来ないかもしれない。しかしこの場合クーポンを読み取るだけなので、誰だろうとあまり関係ないと言える。選定済みのスマホをいつものように端末に置いた。シャン、シャン、シャリーンと小気味良い音がして、レジに金額が表示される。

はずなのだが、表示されない。変だな。姉ちゃんもおかしいと思ったのか、「もう一度お願いします」と促し俺もそれに従った。しかし二度目も同じく、音は鳴っているのにデータを読み取らないようだ。結局三回試して全て失敗に終わった。

仕方ないとばかりに姉ちゃんは「クーポン番号は南蛮ですか?」と聞いてきた。直接入力するつもりだろう。俺はスマホのクーポン画面を開き、その画面を見せる。姉ちゃんはそれを見ながら「○番、○番、○番」と、端末に入力していった。結果、予定通り710円の会計金額が出てきた。

「おー、ちゃんと同じだ」と何となく嬉しくなった俺がつい漏らすと、姉ちゃんは照れくさそうに「うふふ」と微笑んだ。お、何だ、いい笑顔できるじゃないか。笑うと一層可愛いじゃないか。と、まるで成長する孫を見て目尻を下げる爺さんのように微笑み返した。

頼んだバーガーの準備がされている間、ふと誕生日月の客の無料ポテトSが、誕生日証明もしないままレジに通っているのが気になった俺は、好感を抱き始めた姉ちゃんに「ぼく、誕生日なんですけど、身分証とか出さなくていいんですかね?」と恐る恐る質問した。こういうのって大体免許証とかで確認するものだと思っていたわけだが。

姉ちゃんは「え?」と言わんばかりの意外顔で俺の顔を覗き込んだあと、「あ、ハイぃ~、特に大丈夫ですぅ~♪」と、これまた一瞬ドキッとするほど可愛らしい仕草で笑顔を見せてきたのだ。「あ・・・そうなんだ、はははw」と、まるでバカまじめな郵便局員・松本人志のごとき真面目さで質問してしまった自分のお堅さに苦笑しながら姉ちゃんをチラリと見ると、「ふふっ、真面目なんですね」という顔で俺を微笑ましく見ていた。それだけが取り柄ですから、と俺は照れくさそうに俯いた。

と、それっぽいやり取りがあった後、注文の品が出来たようで、姉ちゃんは「お待たせしました~♪」とバーガーの入った手提げ袋を両手で俺に手渡す。「お、どうもどうも」と何となく上機嫌になって手提げ袋を受け取る俺に、「ありがとうございました~、うふふっ♪」と、姉ちゃんはまたも満面の笑みで返して俺を見送るのだった。

あれだけ無愛想だと思っていた姉ちゃん店員が、この見事さ。客の心を掴む、笑顔、言葉…。人は成長するのだな。今度買う時もこの姉ちゃんだったらいいな。180度態度を変えて家路に就いた。
 
 
■レギュラーになれない訳
温かい笑顔の姉ちゃん店員から買った温かいハンバーガーだが、すぐには食べられない。まずシャワーを浴びて、シックスパッドを着けて、洗濯物を取り込んでからメシを食うのが最近決めたルールだからだ。いつでも寝落ちしてもいいよう準備をしてからメシにありつく。遠回りしているようで、やってみると非常に効率がいい立ち回りだった。

それら準備を整えた俺は、いよいよ食事タイムが来たと、冷めたハンバーガーをレンジで温め直す。温めている間、冷奴と醤油を冷蔵庫から取り出し、ジョッキにプロテインの粉と牛乳を注ぎ込み、スプーンでよくかき混ぜる。サイドメニュー、ドリンクの準備も万端。その間にもシックスパッドは腹筋を激しく責め立ているが、お構いなしに身の回りのことを次々と終わらせていく様は、ロベルト(バチカン奇跡調査官)のような手際の良さだ。集中すれば数十分で色んなことが出来ると改めて知った。

さて、準備ができたところようやくありついたマクドナルドのハンバーガー。たまごダブルマック、そしててりやきチキンフィレオの二つだ。俺の中では、記憶は定かでないが初めて食うメニューではないだろうか。食う直前まではそう思っていた。

だが後で調べたら、過去あったバーガーをレギュラーに昇格させるために客達に投票させるというのがこの趣旨だったと食ってから気付いた。だから「レギュラー争奪オーディション」というイベント名になっていると。言い換えれば、過去一度もレギュラーになれなかったハンバーガーばかりということ。不人気メニューの寄せ集め。利根川(カイジ)風に言えば「クズの最終戦」ということになる。

・・・大丈夫なのか? 

全て後になってから分かったこと。しかし、力もないのに無理にレギュラーに昇格させても、長続きするとは思えないが。力がない。つまり支持がない。支持されないメニューに執着するより、完全な新メニューを考えた方が良いのではないか?

これが消費者としての純粋な意見。サラ・カサノバと、彼女率いるマックには、もっと深い策略があるのかもしれないが、バーガーを食った感想としては、やはりレギュラーには遠く及ばずという結論だった。

レギュラー争奪オーディション
http://www.mcdonalds.co.jp/campaign/next_regular_audition/

一応、食ったバーガーの簡単な説明と感想も述べておく。

まずはてりやきチキンフィレオ。いわばチキンフィレオのてりやき版だと思うが、てりやきマックバーガー大好きで、チキンフィレオも結構美味いと思っている俺は、きっとこのてりやきチキンフィレオも美味いだろうと最初単純に考えた。しかし食ってみたところ、何かいまいちハッキリしない味だ。てりやきソースの味はするけど、鶏肉にうまく絡んでないというか。感動をもよおさない中途半端さがあった。

ふと思ったが、チキンフィレオは塩味の効いたスパイシーな鶏肉だからこそ成り立つのかもしれない。同じように、てりやきソースは、牛肉でないと、それもてりやきマックバーガーのようなミンチ風のハンバーグじゃないと味が奥まで染みないようにも感じる。そのどちらも満たしておらず、結果一つの個性として独立できないてりやきチキンフィレオがこれまでレギュラーになれなかったのも納得である。

続いて、たまごダブルマックを食ったが、こっちの方がより難色を示した。ペッパーとオニオンが効いたパンチのあるソース、という触れ込みだったが、パンチはあまり無いように感じた。たまごもマッチしていない合っていない。全体的に味気なく、パサパサした食感だったというのが俺の偽らざる感想だ。使っている具はダブルバーガーとかてりたまなどとさして変わらないのに、なぜこうなってしまうのか。いずれにしても、レギュラーになれない訳が逆にひしひしと伝わったのである。

もう一つのレギュラー争奪戦にエントリーしているマックリブは、食ってないが言うに及ばずだろう。あまり美味いという評判を聞かない。見た目からしてもレギュラーは難しそう。俺の中では、黒歴史ピタマックに似たオーラを感じる。原田&ピタマックという今なお残る衝撃的黒歴史に匹敵する何かを、マックリブも持っているように思えるのだ。

他の何がレギュラーになってもいいが、マックリブだけは阻止した方がいいかもしれない。
 
 
■マックのことは忘れて…
衝撃走るマクドナルドの異次元争奪戦に少しだけ参加した興奮も冷め、深夜になると嫁が仕事から帰宅する。今日も嫁は、マグロトロ巻き寿司とか豪勢な賄いを色々食ってきたとのことだ。どんどん舌が肥えていく嫁がマックリブを食ったらどうなるか見もの。

様々な可能性を考えながら、深夜までひと時の飲み時間を過ごしたのであった。

20180513(日) あいにくの雨の中、立ち去った上野公園と、立ち入った美容院と温泉と

【朝メシ】
・家/トースト、ハムエッグ、アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・北千住/ドトール北千住駅ナカ
・北千住/鳥料理居酒屋「鳥良商店」

 
【夜メシ】
・家/刺身(イオン・アオキ キハダマグロ半額、オナガ皮付、タコ)、寿司半額、カニカマレタスサラダ、味噌汁、冷奴
 
【イベント】
鍼治療、上野公園(雨、「人体展」混雑で次回にステイ)、西新井温泉
 
 
【所感】
■急ぎ朝メシとシックスパッド
今日は鍼治療の日なので、朝7時過ぎの起床が望ましい。しかし結果として20分ほど目覚めが遅くなったため、出発準備を急ピッチで進める必要に迫られた。

とりあえず腰痛対策のストレッチを始める。その間に嫁が起きてくる。予測するに彼女は、毎朝のルーティーンであるアイスコーヒーを作り始めるであろう。よってそれまでにトレーニング関係に目処を付けておきたい。

具体的に言うなら、アイスコーヒーがテーブルに出される時までにストレッチを終了させてから、シックスパッドを腹に巻き付けアプリも起動させて腹筋自動トレーニングを開始させた状態でテーブルの前に座った時、ちょうどアイスコーヒーが出てくる、というシチュエーションがベストだ。

それにしても、つくづくシックスパッドは役に立つ。ただ着けているだけでいいのだから。普段全く運動しない人間でもこれなら流石に耐えられるはず。しかも何か別のことをしながら勝手に鍛えられていくというプロセスは魅力的に映るはずで、忙しい(と思い込んでいる)大人達にとって願ってもない環境。今のところ理想的な器具だと思う。トレーニングはしたいけどその時間が無い、時間が作れない、など言い訳が達者な輩にもお勧めだ。

まあ今朝は、アイスコーヒーだけでなく、トーストやハムエッグというしっかりした朝メシを嫁が作ってきたのでストレッチの時間は十分に確保されたが。かといって元々が遅めに起きているので時間に余裕があるとも言えないが。

久々のトーストや目玉焼きを頬張りながら、NHKの「さわやか自然百景」を視聴する。鳥取県側の中国山地奥地に住むモモンガ親子を特集していたが、それがまた愛らしくて心が癒される。

続く「小さな旅」においては、千葉の鴨川エリアを取材。シャチで有名な鴨川シーワールドも画面に結構映っていた。その小さなプールの中で一生懸命芸をするシャチ達の姿に、ウチのシャチ雄(ぬいぐるみ)がいつになく食い付いてくる。かつて居た場所や、同じシャチの姿が懐かしいのかもしれない。鴨川シーワールドからシャチ雄を連れてきて早や8年。食物連鎖の頂点に君臨するTVの向こう側のシャチ達をつぶらな瞳で見つめるウチのシャチ雄は誰よりも心優しい。

という感じでTVをじっくり楽しんでいる間も、腹に巻いたシックスパッドはブルブルと震え、腹筋を刺激し続ける。使い始めて6週間目くらいか、実際のところ始めた当初に比べて明らかに腹は凹んだ。ほぼ間違いなく同じ効果が万人に出るだろう。

久々にちゃんと効果が確認でき、かつ持続可能なトレーニング方法を見つけられた。メシも満足。TVの番組内容も当たり。満悦の朝と言えた。
 
 
■僕は二番
亀有に出向き、朝イチから鍼治療を受ける。これもまた日課、いや週課か。腰の回復のためには欠かせない、もはや義務レベルのルーティンだ。それでも日曜はなるべく長く遊びたいから鍼治療は早い段階で済ませたい。

だから開院時間の朝9時、初っ端から治療してもらえるよう毎回予約を取っている。開院する5分前には院のドアをくぐり、「おはようごさいまーッスぅ!」と体育会系の挨拶を冬だろうが夏だろうが先生方にしてから、備え付けのウォーターサーバーの水を紙コップに半分注いでゴクリと飲み干し準備は万端、待合室のソファーに座って先生から声が掛かるまで仁王のように待機する。

と、北勝富士のごとく何があっても変わらない所作で相対する俺なのだが、どうしても不可解なことが一つ。開院5分前に入っているはずなのに、その時には既に他の患者が最低1人居る、ということだ。しかも待合室に座っているんじゃなく、奥の治療室で治療を受けている真っ最中という状況。俺が治療を受け始めて数分経った頃には、その患者はもう治療が終わって「ありがとうございました~っ」と受付で会計を済ませているレベル。

開院前に中に入って余裕で待機するほど準備万端な俺が、その院に着くよりも早く奥の治療室で既に施術中というトリックアードのような意味不明な状況。院が30分前からオープンしているか、患者がワープしてきているか、先生が一人二役のコントをしているか、そのくらいの思い切りがないと説明が付かない現象であり、患者だ。

一体どんな奴なのか。顔を見てみたい。だけど俺が来る頃には奥のカーテン越しだし、俺がカーテンに隔離されている間に出て行ってしまうという、まるで正体を知られないよう時間を計算してると言わんばかりのタイミング。そもそも男なのか、女なのか、そういえば思い出せない。

一番最初の時間に予約していて、5分前という考え得る限り最速で到着しているはずなのに、一度として一番になれていない現実。俺をあっさりと出し抜く見知らぬ先客。ホント何者なんだ? 判明する日は来そうにない。

いつも僕は二番。いくら努力しても、どんなに頑張っても…。
 
 
■回復度の数値化は主観によるもの
しかしながら、鍼治療そのものはいつも通りの手順。有用な効果があったというのもいつも通りだ。最近、特に回復曲線が著しい。

一番痛い時期を数字で10と設定した時、鍼治療を受け始めて最初の半年くらい5~6をずっと彷徨った。痛み度合は減ったけど、体感的にはまだまだ痛くて生活や思考にかなりの支障が出ていた状態。

次の1年は4~5の間を行き来する。たまに3.8とか3.7とか、明らかに4を下回ったと体感的に感じられたこともあった。その瞬間は嬉しかった。何しろ「4を切るか切らないか」というラインは自分にとって明らかな体感的差異を感じたライン。その0コンマ幾つで全然状態が違った。が、4を切ることは滅多になく、基本的には心身共にまだまだ痛いという感覚で過ごした1年間。

そこから半年がほぼ経った現在、4を切るのはほぼ基本路線となっている。最近ではたまに3を切ることもある。いや、短時間ながら2を切ったのでは?と思わせる劇的回復を味わえる瞬間も一瞬訪れることすらも。

この「常時4を切る」というボーダーは自分の中で天と地ほどの差異を持つ。一般的な生活だとまだ支障はあるけど、朝公園を犬を連れて散歩して、たまに茶を飲んで、肘掛椅子に座ってTVを観たりと、世捨て人あるいは余生短き老後のごとくゆっくり平穏とした生活をするのであれば、支障はあまりないランクだと思える。

まあ今そんな暮らしが出来るはずもないが。とりあえず身体を動かすとまだまだ痛みを感じ取る。しかし。物を考えるという行為をしている最中にそれほど邪魔が入らなくなってきた。人の話の内容が普通に耳に入り、普通に理解できて、普通に思考できるという一連の流れが途中で途切れず最後までできるようになってきたと感じる。

これは自分にとって劇的変化。俺は、いくら鍼を受けてトレーニングしたところで腰痛が完治するわけがないと、10だった数値が2とか1まで激減するなど夢物語だと、最初そう思っていたのだが、今現在の状況や回復ペースであれば、もしかしたら行けるかも…。少しずつだが、確かに良くなってきているのだから。

と、回復の状況を先生に伝えるのが昔よりも大分楽しみになってきた。せっかく懇切丁寧に施術してもらっているのだから、「確実に良くなっている」と伝えたいし、その方が俺自身はもちろん先生も嬉しいはずだろうし。単に「良くなった」というよりも、より具体的な数字なり比較を交えて伝えると、なおのこと理解してもらいやすい。だから俺は、先生に対しては毎回コンマ単位の数字で痛みレベルを伝達している。

あと具体的な比較として、二日前の金曜に出向いたビッグサイトの展示会見学はおあつらえ向きである。何故なら俺は、この手の展示会に年2回は最低行っているからだ。腰が激痛になってからも、ビッグサイトなり幕張メッセなりに10回以上は行っている。サンプルとしては十分な数だろう。また、スーツ、革靴、そしてカバンという毎回変わらない服装や、毎回1万歩内外は歩いているだろうと思われる安定的な歩数も、客観的で公平な比較のために大いに役立つ。条件が毎回変わらないからこそ、それらを過去と現在で比較しながら伝えればいいのだ、先生に。

だから俺は、過去との比較を踏まえつつ「展示会が終わった後の腰の痛みは今回が一番軽かった」と先生に言った。事実、一番マシだったので…。史上最高、過去最高、そんな言葉は時代時代の環境や状況が全く異なるからには殆ど無意味。その時代に生きる個人の心情を満足させるための薄っぺらい煽り言葉でしかない。万人が納得する正解などない。

しかし、至って限定的な範疇と個人的な経験則で放った「過去最高」という言葉には、やけに重みがあったりするもの。無駄に煽らず、価値観を強要せず、共感や同意も求めず、分かる人だけにありのまま思った事実を伝える。だがその事実には十分な背景があって、自分なりに確かな理由があって、それを相手も分かってくれているはずで…。そう信じて絞り出した「過去最高」という言葉は軽くない。その言葉には確信が込められていて、万感の想いが込められていて…。自分の心が動く時、相手の心も動かずにはいられない。

だがそれは、あくまで分かってくれる相手に対してのみ有効だ。背景を知らない人間にそれを言っても相手はイメージが湧かない。結果、薄っぺらい言葉になる。だからこそ、この人なら分かってくれるはずだと信じた相手に思いの丈をぶつけるのだ。

俺は、鍼の先生に「過去で一番痛みが少なかった」と言った。それは先生が俺の症状を知っているから。初めて鍼治療を受けてから毎週2回欠かさず通い続けた2年間。累計200回にも亘る治療の日々。掛かり始めの絶望的な症状から、毎回ほんの少しずつ、亀のごとき鈍さで回復して行く俺の腰の状態を、現在に至るまでの苦悶、喜びを、余すところなく知っているのは結局のところ本人だけで、だけどそれを欠かさず観察してきた先生ならば、俺の気持ちも分かるはず、言葉の真実味も伝わるはずだと信じているからこそ、腰は確実に良くなってきているはずだと報告した。

先生は「よかったですね」と微笑むばかり。だけど俺の真意は分かってくれたと思う。痛みの回復は、自身の感覚が何より頼り。その気持ちを共有してもらえる相手が居るのは「心の救い」となる。同志という人種が、同志だと信じられる相手が、本人にとってどれほど実りのある存在か分かるというものであった。

あと、展示会後の痛みレベルの低さの他に、俺は昨日西新井温泉に行っている。前回、温泉に浸かるなら熱いお湯に5~10分浸かるよりも、ぬるいお湯に20分じっくり浸かった方が筋肉の芯の部分まで浸透してベターだと言われたのでその通りにしてみたが、確かに痛みはより少なくなった。今日、その旨も嬉しそうに報告したわけだ。

それらの事例を総括し、先生は「筋肉に弾力が出てきたのではないか」と評した。速攻で硬くなる俺の腰の筋肉。昔は風呂に入ろうがほぐそうが、硬いまま元に戻ることはなかった。だから四六時中痛い。しかし最近は、硬くなっても温度を加えればまたすぐに柔らかくなる感覚は確かにある。「弾力」とは言いえて妙な表現であり、出口の見えない治療生活に心が折れそうになる日々の中、差し込んだ光明。その言葉こそが何よりの馳走です。

腰の筋肉的に、何より精神的に緩くなった治療を終えた俺は、「今日これからどこかに行くんですか?」と先生に問われた俺は、「上野公園に行く」と晴れやかな顔で返答した。ずっと行きたくて行けなかった国立科学博物館の「人体展」に行く予定なのだ。そりゃ心も晴れ晴れする。晴れ晴れした天気が午後から崩れそうだ、という天気予報さえ頭の片隅になければ、このまま晴天な気持ちで居られたのだが…。

今日の午後、ここまで天気が悪化するなんて思いもしなかったんだ、この時は。
 
 
■美容院
鍼の後は、北千住の美容院。だけど予約時間までまだ2時間ほどある。どうするか。とりあえず北千住の街を少しぶらつく。飽きてきたので、コンサートホール2階にある休憩スペースに並んでいる漫画の内、まだ全巻読み切ってない「キングダム」を読み始めた。とりあえずあと読んでないのは45巻、46巻、47巻までだったが、最終的に全て読み切ったので満足する。

休憩スペースには、負のオーラを漂わせながらTVの野球中継を虚ろに眺める爺さん達がいた。やはりパチ屋は異質な空間である。

時間になったので美容院に到着。いつものスタイリスト・永井氏(仮名)にサッパリと髪を切ってもらい、気分も爽快。GW中の互いの動向含めた近況を報告し合う。

GW最終日に北千住の銭湯「梅の湯」に入った旨を報告したのだが、銭湯好きの永井氏も入ったことがあると言っていた。また、六本木の新国立美術館「ビュールレコレクション」に出向いた時の話をすると、永井君は新宿の隣の初台にあるホールで日本人現代アートの展示を見てきたとすかさず返す。

このように、俺の振った話題には、必ず自身の類似体験を絡めて応じてくれるのが彼のスタイル。毎回そんな感じだ。話が本当に合うスタイリストである。いや、話を合わせるのが上手というべきか。しかも全く嫌みがなく、軽い感じで、でも次回以降、こちらが話したことも「そういえば言ってましたね」「そういえば前、○○っておっしゃってましたよね」などと、ほぼ覚えているので、その場限りの単発な会話で終わらない。「こち亀」のような一話完結型ではなく、長編的な接客スタイルというか。

まあ、このあたりはセンスだけでなく経験とか勉強熱心さも関係してくるとは思う。カットは永井氏だが、最初や途中で髪を洗ってくれたり、髪を乾かしたりマッサージしてくれるのはアシスタントの人がやってくれるのが殆どだ。見習いとか、新人とか、そんな感じの人等だろう。

そのアシスタントにしても、やはり応対の質は千差万別。会話とか特にそうだな。今回のアシスタントの人は、一生懸命話を振ってくれていたが、常に突発的というか、話に連続性がないというか、切り口が統一されていないというか、とにかく毎度レスポンスに困った。

タクシーで言うなら、自分は話したくないのに、どうでもいい話題を振ってくる運転手のおっちゃん、という感じか。たとえば「外、雨降ってましたか?」といきなり言われた。天気の話は基本だし、今日の天気予報は雨だから、そろそろ降ってるんじゃないかと気になって俺に聞いてみたという流れなのだろうが、俺が来る前はまだ降ってなかったので「いや、まだ降ってませんでしたねー」ととりあえず返答してみたが、「そうなんですか~」で終了してしまう感じ。それで終わるのかっ、と突っ込んでしまいそうになる。まあ、天気の話題なんてのは話のとっかかりに過ぎないが、話をどんどん繋げられる人は繋げられるわけで。相手のテンションなども関係するが、やはりセンスの何たるかを感じる1シーンではある。ちなみに人のことを腐しておきながら、俺も繋げられない方の種族。

あと、そこから何度か話題が変わって単発の会話が続いたどこかで、唐突に「いい靴履いてますね」と話を振られた。「え? 靴?」と瞬間思った。何しろ今まで嫁以外で靴のことを言われたことなんて無かったからだ。実際、今履いている靴はファッショナブルかつシックでダンディな、どんなシーンにも合うお気に入りの靴なのだが、全く想定していなかった話題のため、「おお、そうっすか?」などと、嬉しそうな、意外そうな、不自然な声のトーンで返してしまった気がする。一応「確か○○あたりで買ったかな~」と説明したりしたが、「『オシャレは足元から』って言いますからね♪」と、何かどこかで聞いたことのあるようなフレーズというか、教科書通りの返しというか、教科書通りだからこそレスが返し辛い。

着眼点は悪くない。しかし大事なのは、そこからどう繋げるか。キャッチボールが出来なければ、ただ秒数を稼ぐだけの投げやりな単語の応酬にしかならず、気まずい雰囲気や脱力感、不快感などが増すだけの徒労に終わるかもしれない。「相手がこう答えたらこう返す」と頭の中で先読みしつつ、会話を繋げていって欲しい。人のことは言えないが。

その先読みを、恐らく会話を繋げられる人は無意識でやっている。脳にインプットされた知識なり言い回しなりが、体系的にしっかり繋がっていて、それをいつでも引き出すことが出来る、という構造になるよう日々無意識に動いているのだろう。

まあそのアシスタントの人が悪いというのではなく、スタイリスト永井氏はそれが上手いということ。長く通えば通うほど、永井氏の応対の巧みさ、誠実さと人当たりの良さ、と何より真面目さが分かる。このあたりのセンスや何より人柄が評価されるのだろう。彼はいつの間にか店長になっていた。店の評価も当然良いと思うが、何より彼にカットしてもらう客達の評判が良くなければ昇格などしない。社内の事情など客は知ったことではないのだから。

永井氏に髪を切ってもらうようになってから、もう7~8年は経つか。今までで最長であり、これからもずっとお世話になりたいスタイリストであった。他の諸々のことはいざ知らず、「髪を切る場所」については自分の中で既に最高形が確立されている。幸せなことだ。
 
 
■喫煙室がいつかなくなるのだろうか
美容院が終わった頃、既に嫁は待ち合わせのため北千住に来ていた。待ち合わせ場所のドトールの喫煙室の方でコーヒーを一杯飲んで落ち着いた。

東京五輪の頃にはこの快適な喫煙室が無くなってしまうのだろうか。飲食店と言っても喫茶店は含まれるのか。小池都知事は本気なのか。いずれにせよさすがに暴挙が過ぎる。飲食店と言っても千差万別。居酒屋なんていうのは最上位で大人の空間。酒とタバコとダミ声と下品な笑い、目一杯の身体の汚れ、そして何より心の汚れが渦巻くカオスな空間だ。そんな数少ないカオス空間まで優等生にしてどうするのか。

喫煙者を追い出し喫煙を非難することは本当に簡単なことなのだ。大義名分を容易に掲げられ、反論できないよう上から居丈高で見下ろせる数少ない事案なのだ。喫煙者を苛めることは、赤子の手を捻るがごとく容易い。だからどれだけ「喫煙に対してこうこうまでやった」とか「煙草をここまで撲滅した」などと誇らしげに言ったところで、それは功績でも何でもない。さっきも言ったように、それは簡単で労力を必要としない施策だからだ。つまり楽な道だからだ。

俺としては、混雑した電車内でスマホを使ってる奴等を取り締まって欲しいね。あとはイヤホンの音漏れとか、温泉や静か系の飲食店とか、一定の居酒屋でもそうだが、声のトーンをある程度まで抑えて話すべき場所で、超五月蠅い声で喋る奴等とか。そっちの方がよっぽど迷惑だし精神的にストレスだ。その精神的ストレスは、目に見えないだけで実際には十二分に寿命が縮まる原因になる。むしろ煙草の煙よりも寿命が縮まりかねない。煙草について正義の味方のごときドヤ顔でさえずり、偉そうにする輩は、まずこのあたりをしっかり規制してみろよ。と言いたいね。

だけどやらない。なぜなら出来ないから。全く楽じゃない、険しすぎる道だからだ。そういう険しい案件については聞かないフリをして、煙草という誰が見ても一目瞭然なシンプルコースで実績を作って「自分は仕事をした」と安堵する。

スマホ弄りや騒音系について、一応施策のようなことをしたとしても、それはあくまで「○○しないで下さいね」と書かれたポスターとか、館内アナウンスとか、なまっちょろいやり口でしかない。それ以上の激しく厳格な取り決めや罰則の体系的システムは作らない。いや作れない。障害がありすぎると分かっているからだ。よって、消極的で気の抜けた「マナーやルールのススメ」程度の告知に留まる。

そんな告知をしておいて、「とりあえず言うことは言った」「やることはやった」と、まるで何かを実行したかのように自分に言い聞かせる。でも結果は知らないという素振り。結果がダメでも「ちゃんとやることやったからあとはもうしょうがないでしょ」と逆ギレする準備すらできている構え。煙草と同じように法で規制すればいいだけの話なのに、それをしない。それを数値化し、理由を正当化し、万人を従わせるのはまず不可能だからと知っているからだ。不可能なことに労力を割いても疲れるだけだし、点数稼ぎや票稼ぎにならない、というのが作る側の本音であろう。

だが、客も客で舐めている。計算した上で、自分のやりたいことを優先している。たとえば天皇陛下の前で、大音量で音漏れするイヤホンをはめたままで居られるだろうか。2メートル120kg、岩のような筋肉が全身に盛り上がる黒人男が正面に立っている中で、自分のスマホを取り出し、その黒人のパーソナルスペースを侵食するどころか黒人の上腕二頭筋にガンガン自分のスマホをぶつけながら液晶画面を弄り続けることが出来るだろうか。いや出来ない。そんな空気じゃないからだ。

殆どの人間が、本当は空気を読める。命の危険、身の危険、礼を失する可能性、総じて自分が不利益を被る可能性のある時、人は無意識に空気を読む。中東あたりの空港のように、もし電車の中に銃で武装した兵士が立っていて、「スマホを他人の身体に当てた場合やイヤホンから著しい音漏れがあった人間は射殺する」と政府からのお墨付きを得ているような状況だったら、車内の誰一人としてスマホを取り出さないし、音漏れしないように気を遣うどころか音楽すら聴かないはず。

だが現実はそうではない。だからそうしない。つまり周りを見ている、人を見ている。見た上で、大丈夫だと判断する。自我を優先させても危険はないと考え、行動に移す。つまり、舐めている。

結局、舐められないためには相手に身の危険を予感させる以外にない。法的罰則を強制できないのであれば、個人の感性や判断で動く以外にない。力づくしかない。だから恫喝や暴力はなくならない。「嘘喰い」が言うことはほぼ真理だ。

「暴力は犯罪です」と言い切る姿勢もまた俺の中は完全ではない。好きでやったわけではない人間も何割かはいるはずだからだ。そこに至るまでの過程を考えていない。最終手段として取らざるを得なかった執行者の気持ちを汲んでいない。ルールやマナーを法で厳格に規制しないくせに、暴力というキーワードだけを法で規制されているからと殊更にクローズアップする。身の危険があるからと、命に係わるからと。矛盾している。場合によっては相手の言葉や仕草の方が遥かに人を傷付けるし、それで死に至ることすらあるというのに。

まさに問答無用で煙草を排除するメンタルと同じである。お気楽で偏重な、悪い意味で優等生的な思考である。
 
 
■言う方も、聞く方も、言葉ははっきりと
そういえばドトールの受付で、いつものように「アイスコーヒーのMで」とオーダーしたのだが、「はい? どのサイズですか?」と返された。ボードは見てないが、ドトールのサイズ表示はS、M、Lだと自分の中では大体確定していただけに、虚を突かれた感じだ。「あれ?Mじゃないの? だったらR(レギュラー)か? あれ? 何だったっけ?」と頭がパニックになった。

俺はもう一度「Mサイズッ(えむさいずっ)」と言った。だが受付は「はい?」と聞き返してくる。もしかすると、一番最初に聞き返されたから自信を失くしてしまい、2回目の「M」も相手に聞き取り辛いボソボソした声になっていたのかもしれないが、とりあえずその2回目も通じなかったので、瞬間俺の中では「S、M、Lは間違い」と分析した。

なので俺は次に考えられるサイズとして、「Rッ! Rッ!(あーるっ! あーるっ!)」と言った。少し自信無げに。店員は「え?」とまたも聞き返してくる。「R(あーる)で、えーと、レギュラーっ、レギュラーでっ…」ともう大分テンパってきた。「・・・は、はぁ?」と店員。「普通、普通で」「はい?」「普通のサイズでお願いします」と、もう俺は「普通」という日本人なら誰でも分かるはずの日本語に直訳した上で、店員に促した。もういいだろう、さすがにこれで。が、

「S(エス)ですか?」と突然店員。「え…えすぅ!!?」と俺はさすがに聞き返す。「エス」って言ったら、「S、M、L」の「S」のことか? 何で「普通のやつ」って言ったら「S」になるんだ? マクドとかはコーヒーSが基本のやつも多いけど、世間一般の普通っていうのは「S」なのか? 

いやそうじゃなくて、普通のサイズなんだって。スモールじゃない、ショートでもない、ミドル、ミドル、ミドルのMだよ。普通サイズつったらMでしょ?

いや、つかそういえば「R(レギュラー)」はどこいった? Mの表記が違うと思ったからRに変えたのに、やっぱMなの? いやとりあえずSじゃないって。よく分からないぞ。という考えがこの1~2数間、頭の中を駆け巡る。

良く分からないので、「S? いやSじゃないSじゃない」と大切なことなので2度言った。すると店員は「サイズにはSとMとLがございますが…」と、日本語が通じないのかしら?的な困り顔で俺を見て言ってきた。

振り出しかよ! つか結局それかよ! てか俺の方が言いたいよ!コイツ日本語通じないのかって!!

自分の言い方が悪かったのか、店員のヒアリング能力に難があったのか、今となっては分からない。だが俺は内心かなり憤っていた。だからぶっきらぼうに「えむ…!エムです、エムで!」と3回くらい「M」という単語を、表記間違いがないと確信した今度こそしっかりとした声で連呼した。

あとはもう、会計してコーヒーを受け取るまで無言だった。これ以上喋りたくなかった。

キミはSで、ボクはM。言葉はしっかりと伝えるのが良いし、しっかりと聞くのが良いだろう。
 
 
■ランチ時間も混む飲み屋
波乱に満ちたコーヒーを一杯飲んだ後は、上野公園に。と思ったが、昼1時過ぎでかなり腹が減っている。先にメシを食った方がいいだろうということで、北千住駅東口を降りて真っ直ぐ100mほどにある鶏肉メインの居酒屋「鳥良商店」に行く。しかし1階は満席、2階も40~50分くらいしたら予約客が来るということで、結構混雑しているようだ。昼メシだけなので、その40~50分だけ席に座らせてもらう、さっさとメシを食うということで折り合ったが。

2階はそこまで満席じゃない。予約席の札はある。まあそれには色々事情があるだろうが、大人数用の席ぽいのでどの道座るのは悪い。窓際の席を一つ手配してもらった。なぜか、その席なら時間を気にせず居られるらしい。まあ厳密な意味での満席ってのはそうそうない。結果として座れたなら良かったということで。

ランチメニューは600円台後半~900円弱。700~800円のものが多い。ボリュームもあり、旨そうだ。ランチはやはりこのくらいのボリュームと値段が欲しいところだな。嫁の店もそれで苦労しているらしいが、やはり価格は重要だと言えよう。親子丼ランチを1つ頼み、2人でシェアした。夜は刺身を切る予定なので、あまりここで食いすぎるのも良くない。

それプラス1~2杯の酒と、夜用のツマミのいくつかを注文。なかなかリーズナブルなツマミも多く、味も悪くない。ランチで腹を満たしたお蔭もあって、1人1000円程度で会計は済んだ。夜はともかく、昼に営業するなら、このくらいのリーズナブルさがあると人気も上がるのではなかろうか。色々と勉強になる。勉強のためには多くの店を見るのがいい。

そしてようやく上野へ向かおうとする俺等。だが急激に雲行きが怪しくなってきた。というか雨が降ってきた。これは、まずい。「人体展」をちゃんと見られるだろうか。さらに俺は傘を持ってきていない。どうするか。とりあえず嫁が持ってきた小さい折り畳み傘の中に入り、上野駅から上野公園を目指した。
 
 
■土砂降りの中でも…
到来した上野公園。しかし雨が激しく降っている。小さい傘を2人で使っているので、肩などもうずぶ濡れだ。自分の天候に対する甘さと準備不足を呪った。しかし、こんな雨ならむしろ国立科学博物館は空いているのでは?と思ったのだが、それは淡い期待だったようだ。

宣伝しすぎがむしろ過密な入場客を呼んでしまったのか。国立科学博物館「人体展」は、入場するだけでもチケット持ちの客で20分待ち、チケットを持たない人間は40分待ち。さらに入口前の係員が「会場内は相当混雑して見学するのに不自由なブースもあります!」とアナウンスしている。

斯様な特別展は、ただでさえ混んでいる。並ぶ、後ろから遠目で見る、あまりに前が空かないので押し入って入る、程度は当たり前。それをわざわざ「混雑だ」とさらに強調するということは、絶望的なのだろう。団子状態のおしくらまんじゅう、恐らく全く満足して見物できない。

そんな状況でも、並ぶかどうか。この雨の中…。せっかく来たのだし。だけどこの雨の中、傘が1つしかないという状況…。

今は15時。閉館は17時。ここから並んだとして16時入場くらいか。見学できたとしても1時間が限度。館内は大混雑している。そもそも博物館なり美術館なりの特別展をしっかり見ると3時間は最低かかるのが普通。これは…。

「今日はやめとこう」

満場一致の結論。雨で身体を濡らしながら待って、入場しても殆ど見れずに追い出される。意味がない。せっかくの休日で時間もあるけど、ここは思い切って全キャンセルし、次回に持ち越すべきだと。

懸命だ。懸命な判断だった。そう思えるほど酷い雨だった。上野公園を立ち去ろうとした時、噴水広場のあたりで「日本伝統文化フェス」というイベントをやっていたが、客なんて誰もおらず、それどころかすでに撤収を決めたのだろう。テントを片付けるために、ボックスカーがガンガンと公園の中を走りまくる有り様。昼間から車が公園内を走る。それで文句が出ない。それほどに人がいない。

不運だ。不運であり、いかんともしがたい天候の上野公園だった。
 
 
■西新井温泉
撤収を決めたからにはさっさと西新井温泉に行って、ゆっくり過ごすことで合意。恒例のBINGO大会をやりつつ、「キングダム」を読み直しつつ、久々の岩盤浴であり得ないほど汗を欠きつつ、じっくりと過ごした。

しかしBINGO大会。景品は10人以上分あるし、その中でも特等に該当する回数券セットが当たると超嬉しいが、未だ上位の賞を当てたことがない。一回だけ館内義セットをビンゴしたことはあるが。こういうのって、最初はなかなか出ないが、1人、2人、3人目くらいから後はもう一気にビンゴ者が同時多発して、結局何も得られないまま終わっちゃうんだよな。悔しいし当たる気もしない。でもタダなので何度でも参加する。

それと、今回は司会のテンションが低いというか、司会進行があまりうまくなかった感じだ。客もリーチって言わないし、BINGOしてもビンゴって叫ばないし、盛り上がらないというか。その辺のコントロールは司会者の手腕やテンションでどうとでもなるんだが。あとはやる気とか、使命感とか、プロ意識だな。これらのメンタル的姿勢がなければ気の抜けた司会になる。

「司会でこうも雰囲気違うんだね」と隣で同じくBINGOを外した嫁が言った。まさしく然りだ。この沈んだ場面、俺ならばどうしただろう?と頭の中でシミュレーションしながら、当たらなかったBINGO大会を後にしたものである。俺は、対面での対話は苦手だが、こういったくだけたイベントの司会進行系とか大人数向けの盛り上げは結構得意だと思っている。
 
 
■家での2次会
温泉から上がり、イオンで惣菜やら刺身のネタを買って、家で2次会を始める。

イオン内の「アオキ」で刺身柵が半額で売ってないものかと物色したが、本マグロ系は定価のママ。キハダマグロとバチが半額だったので、サッパリと淡泊なキハダに決定。あと、「オナガ」という皮付の柵もあったので、それも買ってみる。初めてのネタだが、見た感じ鯛系。調べたらハマダイということ。なるほど…

その他、イオンで買った寿司や、カニカマとレタスを嫁が職場からもらってきたドレッシングで和えたサラダとか、鳥取のキヌサヤを使った味噌汁とか、鳥取から土産でもらった「ふき味噌」をたらした冷奴とか、もらい物も多かったが、どれも満足できる夕食。

食後もポテロングやら、クッキーやら、酒やら、諸々…。

総じて、活発に活動したようで、そうでもないような日曜だったけど、それは主に雨のせいで、その雨の中でも活動し、だけどゆっくりと休み、食い、ダラダラと過ごした、良い1日だったと思われた。

20180506(日) GW最終日は亀と一緒に近所ぶらり旅 梅島~北千住~亀有~西新井

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー

【昼メシ】
・亀有/マクドナルド(ビックマック、ペプシS)

【夜メシ】
・家/トンカツ弁当、焼きソバ、冷奴、ビール、メロンパン(柏土産)、ラーメンスナック

【イベント】
ベルモント公園、北千住、鍼治療、西新井温泉、孤独のグルメ 荒川区三河島麻婆豆腐専門店「眞実一路」視聴

【所感】
■GW最終日の朝は穏やかに
瞬く間にGW最終日が到来。嫁は仕事があるので早起きしていた。しかし俺は、そこから2時間ばかし遅れて目が覚めた。時間に対する意識、認識。それが休日だとどうしても甘くなる。

まあ他の人間も大体はそんなものだと思いたい。仕事がなければ緊張感を保てない。明確な目的意識がなければ楽な方へと行きがちで、何かに縛られていなければ瞬く間に堕落する。それが人間の性であると…。人間という生き物に対する諦観と、嫁に対する申し訳なさとを持ちながら、朝のアイスコーヒーをすすり、シックスパッド腹筋運動やストレッチを何とかこなし、仕事に出て行く嫁を見送った。

■地元で過ごしたGWとその記憶
それにしても、今年はまとまった旅行や帰省とか、それなりの遠出などがないGWだった。ほぼ地元か、移動してもせいぜい数十キロ~五十キロ圏内の都内。地元中心に長期休暇を過ごしたのは多分ここ10年で初めてじゃないだろうか。新鮮でもあり、何となく寂しい気分でもあり…。しかし今後これがデフォルトになるだろう。

一方で、今回のGWを終えて強く思ったこともあり。結局のところ、重要なのは何処に行ったかではなく、何をしたかでもなく、何を感じ、何を獲たか、本質的にはそこに行き着くのだと。そのために時間を使ったという実感なり手応えなりを感じられたのなら、それに勝る過ごし方はないという再認識というか、確信のような気持ちもあった。まあ長期休暇だけに限らないが…。

その感覚を得られるのならば、場所は関係ないし相手も問わまい。何故なら、何処に行こうが、何をしようが、どうせ数日もすれば殆ど記憶から消えるからだ。人は、驚くほど過去のことを殆ど覚えていられない。詳細に再生し直せない。

無理もない。事実そのものは「過去あった事実」として処理され一旦記憶の引き出しに入るけど、その引き出しも反復して出し入れしないことには錆び付き機能しない。そして、一旦締まった引き出しを再度取り出す機会も殆ど訪れない。ただ奥へ奥へと押しやられ、二度と日の目を見ることもないだろう。

それも止むを得ない。人は毎日を生きているから、常に頭の中は最新の情報で塗り替えられ続ける。目まぐるしすぎて昨日のことすら思い出せない。ましてや1週間前、数ヶ月前、数年前にあった「事実」など、どうして今さら引っ張り出せるだろう。「そんなこともあったな」レベルで終了だ。必要とするのは過去あった事実でなく、「そこで得たもの」だ。その「得たもの」こそが自分自身を形作っている。

そう考えた時、果たして俺はこの延べ7日間のGWで何か得られただろうか、とつい自問自答してしまう。これをいい機会だと思い、自らを練磨しようと意気込んだはいいが、結局何も得ていないような、気がする…。

行く場所よりも、した内容よりも、やはり重要なのは事に臨むにあたっての心の姿勢。よーく分かった。改めて認識した。

が、今さら思い返しても仕方ない。GW最終日を割り切って、亀達(ぬいぐるみ)を連れて午前中から活動することに決めた。

■薔薇の見頃に間に合う
今回はお供として2人の亀、いつでもどこでも帯同している亀吾に加え、嫁から預かった亀六も連れていきつつ家を出た。

駅を目指す途中、足立区屈指の公園「ベルモント公園」に寄ってみる。花が、特に薔薇が綺麗だった。ベルモント公園は、地域住民にとって数少ない憩いの場であると同時に、やさぐれた足立区に似あわず花の育成に力を入れる稀有な場所だ。赤々と咲き誇る定番のアンクルウォルターの他、多種多様な薔薇達が晴れた青空によく映えていた。花好きの亀六も嬉しそうだ。目をキラキラさせている。それを眺める俺もまた嬉しい気持ちになる。。

この世に美しいものは数多く存在するが、やはり自然の美しさに勝るものはそうあるまい。中でも花は、色彩の豊かさで群を抜く。そのみなぎる生命力で鑑賞者の心を躍動させる花もあれば、可憐な佇まいで見る者の愛でる心を育む花もある。花の訴え方は千差万別。だがどれも美しい。気が遠くなるほどの昔から、人は花を見てきたはず。その悠久を経て埋め込まれた遺伝子は消えることなく現代まで紡がれて、だから人は花を前にするとただただ心を奪われるに違いない。

だから、その花々を大切で重要なものだと位置付けるベルモント公園は優秀だと言えた。

■北千住
駅を出て北千住へ。とりあえず界隈をブラつくことにする。何は無くとも北千住。困った時はとりあえず北千住。それが多くの足立区民にとっての統一見解でありマイルールというものだ。北千住に来て何もないなんてことはない。足立区随一かつ唯一の一大タウン・北千住は民達の期待を裏切らない。

買い物ならマルイとルミネの二大巨頭で大体のものは揃うし、独自路線を行く商店街も魅力的。カフェも多く時間潰しにはもってこい。飲食店にしても、ファストフード店から本格派まで多数擁立。飲み屋も多種多様な店が群雄割拠し、昼飲みできるところも枚挙に暇がない。遊びたければビッグエコー、カラ館、あるいはマイナーな歌広や、歌うんだ村改めカラオケファンタジーなどで声を張り上げるも良し。コンサートホール、ピーアーク、ビックリヤを始めとする微妙なパチ屋で修羅と化すも良し。少しアダルトな雰囲気な店でオトナ気分を味わうのも悪くないだろう。宿場町に相応しく、公園や寺などの史跡も案外なくはない。疲れたら近くの銭湯で汗を流せば問題ない。とにかく歩けば何かに当たるのが北千住という街。だからこそ、ふらっと立ち寄ってしまうのであった。

とりあえずコンサートホールでマイジャグラーを少し打った。しかしどうも調子が乗らず、気も乗らない。買い物するような気分でもないし、街を歩いても体力と気力を消耗するだけだと判断した俺は、さっさと退散して亀有に向かうことにした。夕方から鍼治療を受ける予定が元々あるのだ。

にしてもGW最終日だからか、やけに疲れる。それほど疲れることをしてないはずだが、動きも思考も鈍い。そういう時は、根を詰めない方が得策。鍼を受けて、風呂に入って、マンガでも読むのが吉だろう。「北千住に行けば何とかなる」という前言と矛盾するようだが、自分的に北千住の光景は見慣れすぎてしまっているため、少なくとも駅周辺で目新しい何かを得られる感じはしなかった。少なくとも今日は…。

■店と客、多くは一期一会で決まる
宿場町通りからの細道を通って駅に戻る途中、ビストロ「2538」の建物がふと目に入る。域内に2店舗、いや3店舗だったか多店舗展開する有名店で、今や押しも押されぬ北千住の顔の一つだ。7~8年前に一度食ったが、確かに料理は美味くて良い店だった。

が、現在俺はこの店の入口をまたぐ気が一切しない。2年ほど前、友人とここに入ろうとした時、店員に「今、空いてる席がないんですけど」とあからさまに面倒臭そうな顔で言われたことがあるからだ。確か当時、テーブル席を希望したか? 忘れたが、店内を見るとカウンター席どころかテーブル席も相当空いていた。なのに空席無しとはどの口が言うんだと。カウンター席なら座れますがとか、時間柄なのか何なのか知らないがテーブル席を開放しないならしないでその理由をハッキリ言えばいいものを、ただ「席が空いてない」と、俺等が店内をじっくり見ている姿が見えているはずなのに、それでも言い切った店員の姿勢にこの上ない不快感を抱いたのを今でもよく覚えている。普段温厚で下手に出る友人があからさまな嫌悪顔で「もう二度と来ねぇよ!」と捨て台詞を吐いていたから、相当キレていたのだと思われる。

とにかくそういう記憶があるので、2538には二度と行かないことにしている。別に俺等が来なくとも、人気店だから客なんて幾らでも訪れるだろう。少なからず店舗側もそんな気持ちはあるはず。だが、その思い上がりこそがますます気に入らない。

今の店員に、そんな対応をする者は恐らくいない気がする。7~8年前に初めて訪れた時の店員も、正直好感度は高かった。しかし2年前に俺等が会った店員はそんな対応をした。それで十分行かない理由になる。たった一回の不味い接客、いやもしかするとたった一人の店員がやった不味い接客だったのかもしれない。しかし客にとってはその一回が全てであり、その一回で評価が固定する。悪い場合、その一回で二度と来なくなるどころか、情報の伝達と拡散が異常に早い現代社会だと最悪店を潰されるレベルにすら達しうる。売る側はもっと心に留めておいた方がいいだろう。

ホテルにしても、飲食店にしても、口コミ評価が一方向には決してまとまらない理由もそこだろう。「スタッフがすごく丁寧」という評価が大半の中、「スタッフの態度が最悪」と水を差す口コミが突然出てきたりする。別に妬みや悪意とかではなく、その口コミを放った客が10人中1人だけ不味い対応をするスタッフにたまたま当たったからという可能性は大きい。または。普段は態度良好なスタッフだが、たまたまその日の虫の居所が悪く、客にぞんざいな態度を取ってしまった時にぶちあたってしまった客なのかもしれない。だが客にとってはそれが全てであり真実であることは言うまでもないし、その一期一会から出た気持ちに異論もあまり挟めない。

という話を以前、嫁としたことを思い出した。不味い対応をした本人はただ1人の客が来なくなるだけなんて甘い考えでいるかもしれないが、そんなものでは済まされない。店に大損害を与えかねない所業なのだと。所詮、接客とは人が全てなのだと。「接客業をやってます」などと誇らしげに自分で言っても、それがイコール接客のプロという意味では全然ないし、接客の適性があるという意味でも全くない。偉そうに言うヤツにほど、「偉そうに言うな」と言ってやりたいところだ。

とにかく俺は、「2538」には行かないと2年前から固く固く決めている。

■亀有のマック
北千住から亀有に移動する。千代田線に乗る乗客はそれなりに多かったが、亀有駅周辺には人通りがあまりない。GW最終日の夕方にそこまではしゃぐヤツもそうは居ないと思うが、いつになく閑散とした雰囲気ではある。

とりあえず、予約している鍼治療までまだ大分時間があるので、暇潰しも兼ねて北口駅前のマクドナルドに入った。

そのマック1Fのカウンターには結構客が居る。しかし若い連中ばかりだ。それもちょっと若い程度じゃなく若造、小娘の類。まず間違いなく俺が一番年上だと確信できる。この圧倒的年上感、ツバメの巣に一匹だけカラスが迷い込んだかのような居心地の悪さがある。若いのはエネルギーを持て余しているのに、そのパワーの持って行き場を見つけられないというケースも多いだろうから、この類の店にたむろう。街灯に引き寄せられる虫のように…。

その尽きないエネルギーや瑞々しさが羨ましくもあり、反面その気楽そうな顔が許せなくもあった。そう考える内に、理由もなく喧嘩を売りたい気分に少しなる。どう考えても自分の方が病んでいると我に返った俺は、カウンター前に並んでさっさと注文することにした。2つ前の小娘はシェイク1本頼んで終了。このガキ舐めてんのか…。

いかんいかん。頼み方は人それぞれ。俺は俺で欲しいものをオーダーするだけだ。夜に腹いっぱい食うつもりなので、ここは控え目に。ポテトもナゲットもやめておいて、バーガーとドリンクS程度にしておくのがベター。バーガーはやはり、オキニの「てりやきマックバーガー」か。しかしてりやきソースが何とも不健康な気もするし…。気付けば店員に向かって「ビックマック一つ」と口に出していた。

だが瞬間、しまったと思った。同じサッパリ系でも、せめてフィレオフィッシュあたりにすべきだったと。だが時既に遅く、頼んだビックマックとペプシSは、今まさに目の前に差し出されたところ。この手の「一瞬の迷い」がもたらす心のダメージは意外と大きいことを明記しておく。

トレーを持って客席の2階に上る。が、2階は何となく客が多そう。チラ見すると、予想通り結構客が座っていた。到底ゆったりできそうもない。2階はスルーし、さらに上の3階へ歩を進める。3階の客は、これもまた予想通り少な目だった。人数としては総勢10人程度か。これなら十分くつろげる。

にしても、こんなに空いている3階なのに、そこまで上らずイッコ下の2階で妥協するとは。階段を使うのが面倒臭いのだろう、きっと。そういう行動を繰り返す内に怠け癖が身に付き、いずれルーティーンとなって、身体がみるみる衰えていくのだ。20年後にはもうメタボオヤジと弛み女子、いや樽み女子の出来上がりだ。せいぜい今の内にみなぎる若さを謳歌し、苦労知らずの新陳代謝を堪能しておくがいいさ、未来の仲間達よッ…!

その人気の少ない3階の、窓際に近い4人掛けのソファーに俺は陣取り、昨日本屋で買ってきた「バチカン奇跡調査官」の最新巻の続きを読み耽る。やはりこの手の場所は読書が進むというか、読書くらいしかすることがないな。他にすることと言ったら、勉強か、1人でなければお喋りか。

奥では多分勉強しているのか、ペンを持って食い入るようにノートに何やら書き込んでいる若いのが居る。何を勉強しているのか知らないが、目が相当近い。顔が机にめり込みそうだ。なぜ人は、息が掛かるほどの近さで文字と瞳との距離を縮めようとするのだろうか。

正面の一番離れたテーブル席を見ると、若造3人が結構でかい声で楽しそうに喋っている。学生か、高校生には見えないので大学生か、それともそこらのフリーター集団か。とにかく笑い方が下品というか、それよりも使う単語が結構下品。汚い系とか卑猥系のキーワードを他人に聴こえるような場所で、他人に聴こえるような声で喋る人間の神経が俺には未だに理解できないし、理解できないゆえに問答無用で殴りたくなる。そう思えば思うほど、若造等の顔が思慮の欠片もなさそうなマヌケ顔に見えてくる。本能的にこの種の人間は無理だと再確認した。

その3人集団と数メートル離れた窓際のカウンターに、女子が1人、いやよく見たらもう1人か、静かにウフフと会話する女子が居た。多分20代前半、服装や見た目から清楚系か。その落ち着き払った雰囲気は学生ではなくむしろ勤め人、OLが放つもの。その清楚系OL風女子等に聞こえるように、さっきの若造3人グループは叫んでいるのだろうか。一体何を狙っているのか。逆効果でしかないし、だが若造にそんな思慮深さがあるはずもない。OL2人は外の雑音など全く耳に入っていないかのごとく平然と会話している。本能的に、この種の人間を自分は好ましく感じると再確認した。

そんな勝手な俺の分析、思い込み。真相を知るのは当人のみだが、こういったファストフード店にしても、カフェにしても、何時間も滞在してホントみんな何をやってるんだろう。何を思い、どういうつもりでこの手の場所に来てるんだろうか…。喫茶店に来るたびに、マックやファミレスに1人で入る度に、そんな考えが頭を過るのだった。

あと、あまり関係ないが、亀有駅前のマックは少し前まで喫煙できたはずだけど、今では完全禁煙なんだな。場末の梅島に続き、下町の亀有まで煙草厳禁とか、小池都知事進める喫煙者根絶作戦の前準備にしても性急すぎる。これら場末や下町こそが最後まで抵抗すべきだというのに。

それともこれがマックの基本方針か。そうなのだろう。やはり若い人間向けの店舗というか、煙草を吸う大人は来なくていいよと宣言されているも同じ。大人の方がガッツリと金を落とすはずだし、長居もしないから回転率も上がると思うのだが、先に排除するのはまず大人というのがマックの戦略なのだろう。だからマックには特に一人だと入り辛いし、それでもハンバーガーは食いたいから、必然テイクアウトに偏るに違いない。

勝手な思い込みかもしれないが、今やマックに入るのも一苦労であった。

■鍼治療
マックで時間を潰した後、鍼治療に向かう。行く前に地元のパチ屋「アカデミー」内のソファーに座っていつものように一服したのだが、ここもまた客が閑古鳥だ。GW最終日なんてのはどこもそうなのかもしれない。まあ客が多かろうが少なかろうが、店員が俺をシカトしようがジト見しようが、いつだって俺は威風堂々と煙草を吹かすがね。偉そうに。常連であるかのような態度で。一度も打ったことないけど。

鍼治療については、打った後は大分楽になった。GW後半、飲みとかスロで座りっ放しだった時間が多かったから。ロクな運動もしていないし。「適度な運動を」というアドバイスと共に先生は、昨日酒をたらふく飲んで施術の途中で寝てしまった俺に対し、「早めに寝て下さいねw」と釘を差してくれたのだった。その助言を守らないから治癒ペースが遅くなる気もしなくはないのだが、まだ夜は長いので。何より温泉に行きたいので。

居ても立ってもいられなくなり、そそくさと西新井温泉に向かった。

■西新井の唾吐き爺ィ
西新井駅に降りた俺は、まず駅併設のショッピングセンター「トスカ西新井」の3階入口すぐにある保険会社アフラックブースに座っているアフラックアヒルのところへ赴き挨拶する。このアフラックアヒル、首が曲がっていて可哀相だが、亀六のお気に入りなので西新井温泉に来た時には挨拶は欠かさない。このちょっとした交流が心を癒すものだ。

そして西新井温泉へ入った。デイリーストアの外のベンチで、酔っ払った爺ィが何やらわめきながらずっとペッペッと唾を路上に吐きまくっていた光景が大層不快だったが、この手合いは酔っ払ったフリをしながらも誰かに構って欲しいという本心が実はあるはずなので相手にすると余計にこじれるのが分かっているから、そこに誰も居ないかのように振舞う完全シカトこそが最も効果的。正直、関わりたくはない。

一応、唾を吐きかける行為は暴行罪に該当するようだ。服に掛かったりしたら器物破損にもなるとか(クリーニング代を請求可能)。そこまでするかどうかは別として、そういえばこの爺ィ、半年ほど前にも見たことある。その時もデイリーストア前のこのベンチで、同じように唾を吐きまくっていた。こりゃ確信犯的な人恋しい爺さんか、あるいは世間が憎くて憎くて仕方ない、誰でもいいから他人に何か害を為してやりたい、不快な思いをさせたいと、ただただ世の中を憎悪する狂人爺ィか、そのどちらかだろう。

こんな爺ィがいるのだから、まったくもって西新井という場所も侮れない。足立区が外から被る悪名に恥じない掃き溜めの宝庫ではないか。

■温泉で漫画
気を取り直して西新井温泉に入る。サウナで汗を流し、湯船に使って、その湯船の中でストレッチをして、十分に温まったところで一旦着替えて上階の休憩所に行って漫画を読む。いつも同じパターンだ。

その漫画にしても、現行巻を一通り読了した「キングダム」をまた1巻から読み始めたので、いくらでも時間潰しが出来る。まだ読んでない漫画も結構置いてあるが、「キングダム」クラスの面白さならば2回読んでも無駄にはならないだろう。

しかしまあ面白いもので、1回目に読んだ時は河了貂がどうみても男の子にしか見えなかったのに、一旦女だと判明してしまってから2回目を読むと、1巻から既に河了貂がどうみても女の子にしか見えない。なぜ俺は1回目の時、河了貂が男だなどと思い込んでいたのだろうと、過去の自分が信じられないほどに、「河了貂=女」の図式が固着してしまった。最初の思い込みを打ち壊され、新たな固定観念が植え付けられたわけだが…。

前情報というのは有意義であると共に、使いようによっては極めて危険で恐ろしい。人を思いのままに操れる、人に思いのままに操られる、ということだからな。偏見は持たず、一旦確定した情報でも、それが正しかったとしても、出来るだけニュートラルな心を保ちたいところだ。

■夜メシは気分によって
温泉で寛いでいると、仕事中の嫁から「そろそろ帰る」と連絡が入る。いつもよりかなり早い営業終了だが、客があまり来なくて暇すぎたので早めに店を閉めてしまったとのこと。GW最終日、また日曜の夜というのはそういうものかもしれないが、客が来ないという事実は店に立つ側の人間にとっては不安でありストレスの溜まることだろう。他の日に客が舞い込むことを祈る。

メシを何にするか。嫁はいつも職場で昼メシをがっつり食べるので夜は腹が減らない。必然、夜メシを食うのは俺のみとなるが、風呂上がりはどうせ1人なのだからと、西新井のラーメン屋「ど・みそ」あたりに寄ってみそオロチョンでも食うか、と最初考えた。

が、嫁が早めに帰宅するなら話は別だ。何か買って家で一緒に食う方が良い。最近、嫁と食卓を囲むことが殆どない。俺が先に帰宅し1人メシを食うというサイクルが基本だ。そのまま嫁が帰る前に寝てしまうケースすらある。だから今日のような日は、少しでも家で食うのが望ましい。実際食うのは俺1人かもしれないが、目の前に誰かが居るという状況だけでも景色や気分は随分異なるものである。

当たり前だと思っていた風景、恵まれた環境、心地良い空間、人、相手…。慣れすぎるとその貴重さをついつい忘れがちだ。忘れるといずれ座標軸を見失う。座標軸とは、自分自身の成り立ちそのものだ。気を付けなければならない。

というわけで俺は、風呂上がりは何処にも寄らず帰宅することに決定。一方、嫁は駅前のスーパー「東武ストア」で弁当など俺の夜メシを調達してから帰るとLINEで連絡があった。その際、何か食いたいものはあるか?と問われて一瞬戸惑ったが、すぐに「天ぷら弁当」と答えた。

■誰にでもお気に入りの弁当が
東武ストアの「天ぷら弁当」。正式名称は「初夏のよくばり天重」と言う(最近知った)。初夏、と謳っているが、覚えている限りでは通年で売っていたはずだ。いずれにせよ、自分の知る限りコスト面、人気面、美味しさ、全てにおいてトップクラスの弁当だと考える。リーズナブルな割に美味くてオシャレということだ。

リーズナブルさは言うまでもない。売価は覚えている限り380円とかそんな感じ。その値段で、豪華天ぷらが多数付いている。そもそも天ぷらという時点で他の肉系弁当や魚系弁当、海苔弁などとは一線を画すのは言うまでもなく、その存在感は気品を漂わせる。つまりオシャレということだ。

何より美味い。この『味』こそが一番重要な部分だが、「初夏のよくばり天重」は、天ぷらご飯のクオリティを左右する根幹と言われるタレが絶妙な味付け。それは店で食う美味しい天丼のように美味い。そのタレに浸された天ぷらが、カラカラに乾いているわけじゃなく、逆にベチョッと水っぽいわけでもなく、ほどよい湿り気とタレの染み込み具合で米と良い感じで絡み合う。

とにかく安くて美味くて見栄えのいい弁当と言えた。

それもそのはずというか、この「初夏のよくばり天重」は、俺が東武ストアに通い始めた頃から既に店に置いてあったはずで、逆算すれば10年を優に超えるロングセラー弁当となる。それも十分に納得できる話だ。当時から「初夏のよくばり天重」は、東武ストアの弁当コーナーの中でも一際異彩を放っていた。

つまり客から支持されている。昔から今に至るまでずっと…。それイコール『美味い弁当』と結論付けても問題ないだろう。ステマや過大な広告など使わずとも、日々客が買っていく。見込みや願望ではなく実需で必要とされている。コロコロと商品が入れ替わる弁当界において、ずっとレギュラーで居続ける。それだけで既にレジェンドクラス。俺個人としては、「東武ストア史上最強のセンター」であると言い切れた。

■消去法
ただ、嫁が東武ストアに寄ったところ、肝心の「初夏のよくばり天重」は置いていなかったと連絡が入る。売り切れたのか、季節柄作っていないのか、良く分からないが俺が出鼻を挫かれた格好には変わりない。続けて嫁は、他の弁当ならば数種類あるので、その中からどれか選ぶようにと写真付きで依頼してきたが、これもまた非常に悩ましい。

「キミに決めた」と最初から本命に決め打ちしていた場合、その本命以外はどうでもよくなる。次点とか2番目とか、その先やまさかの場合のことを考えなくなる。だから、そのまさかが起きると思考が止まる。何も出来なくなる。思考が止まると、「何も要らない」とちゃぶ台自体をひっくり返すという根本的放棄に出るか、本命以外はどれも同じだと開き直って「別に何でもいいや」と投げやりになるか、いずれかだ。

今回の俺の場合、後者に多少近かったか。「天重じゃなければ別に何でも同じだ」と、最初投げやりになっていた。嫁は写真付きで下記をリストアップしてはきた。曰く、

トンカツ弁当、シャケ海苔弁、イカフライ海苔弁、焼鳥弁、そのあたりがラインナップとして存在する、と。

しかし、本命不在の中ではどれも同じに見える。別に何でもいいんじゃないか? 一時そう思ったのは確かだ。しかし、果たしてノータイムで選んでしまっていいものか。俺は今日、朝メシを食ってない。昼メシも、ハンバーガー一個だけで済ませた。夜メシで全てをカバーするつもりでいたからだ。ならばもっと真剣に、真摯に考えなければと考え直した次第である。

それでも、そこまで積極的な情熱を絞り出すことが出来なかったので、消去法で考える。トンカツ弁当と焼鳥弁は肉系、シャケとイカフライは魚介系。元々天重を食うつもりだったから、順当に行けば魚介系を選ぶべきだろうが、何しろ朝も昼もあまり食ってないので腹が減っている。さらに温泉で汗も流した。水分も油分も足りなくなっている。

となれば、ガッツリ腹に溜まり、「食った」という満足感がより大きそうな肉系弁当の方がいい。さらに肉系の中でも、トンカツ弁当の方がボリューム感も食いでがあり、味が濃くて脂を使っている感がある。

結論は出た。俺は「トンカツ弁当でヨロシク」と嫁に返信し、西新井温泉を後にした。

しかし温泉を出た頃から雨が降り始めた。霧雨や小雨程度ではなく、意外と強い降り。天気予報でそんなことを言ってたか? どのみち傘は持ってきていない。かと言って新しく買うのも無駄すぎる。仕方ない。濡れて帰るか…。

せめて頭だけでも雨から守ろうと、ポケットから取り出したハンカチをバンダナのごとく頭に巻き付ける。ただの薄布一枚でも結構違うものだ。緊急避難的装備を整えた俺は、自らの頭と、カバンの中で小さく震えているであろう亀吾と亀六を雨から守りながら早足で家に駆け込んだ。

■最後の夜はTVを見ながらマッタリと…
帰宅して間もなくして、嫁も帰ってきた。手にした買い物袋には宣言通りトンカツ弁当と、あと焼きそばも入っていた。なかなか腹に溜まりそうで良い。それらを温め、あとは冷蔵庫にある冷奴や納豆、もらったビールなどをサイドメニューとして陳列し、さらに食後のオヤツ用にメロンパンやラーメンスナックなどを用意すれば、いつの間にか目の前にはいっぱしの夜メシ風景が展開されていた。

それらを、嫁の今日の仕事の話などを聞きながら食う。出来合いのものばかりだが、なかなか味がある夜メシだと思った。やはり、1人で黙々と食うよりは、会話なり、BGMなり、何かしら音や刺激があった方がいいということだろう。

必ずしも誰かと食わなきゃダメとは言わない。1人でもいい。しかし無味乾燥ではない、潤いのような空気が漂っていることがきっと大事なの。その潤いは、音も色もない空間でただ1人、無言でメシを食っている状態では多分現れまい。人に触れること、人と会話すること、話を聞くこと、1人の場合なら音や色に触れること。

すなわち刺激に触れるということ、何よりそれに対して反応し、答え、考えるという行為こそが、つまり脳を使うという所作を並行して行うからこそ、メシは美味く感じるのかもしれない。そして基本的に、必要な刺激は複数の方が得やすいのは言うまでもない。とりあえず、心の中で色々なものに束の間感謝する俺だった。

そういえば、メシを食っている時、録画した「孤独のグルメ」を観ていたのだが、今回は荒川区の三河島にある麻婆豆腐専門店「眞実一路」という店が舞台だったが、三河島とはまた何てマイナーな場所を…。しかし孤独のグルメで取り上げられたら一気にブレイクするんだろうな。

と思ってTVを観たあと何気なく店を検索していると、まさしく孤独のグルメで取り上げられると決まってから、客が一気に増えたようなことを言っている人間が多い。皆、ミーハーというか…。確かに麻婆豆腐は相当美味そうだったし、食いたくなったけど。

影響されるものは色々。何がブレイクするかも分からない。だからこそ日々周囲にアンテナを張って、だけど座標軸はニュートラルに。

GW最終日はこうして終了したのであった。

20180501(火) GW合間のマイジャグラーと吉野家

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・職場付近/自作オニギリ
 
【夜メシ】
・梅島/吉野家吉野家 牛丼並盛、ポテトサラダ、味噌汁、玉子
・家/キリンビールとれたてホップ新・一番搾り、シュークリーム
 
【イベント】
仕事、
 
 
【所感】
■多めの運動の翌日は大きめの腰痛
昨日は晴天の下、15kmほどウォーキングした結果、疲労と睡魔が甚だしく、夜は爆睡。久々に8時間ほど睡眠したか。泥のように眠ったお陰か寝起きはいつもより心地良く、気分も清清しい。

しかし、腰の痛みがいつもよりも大きめなのに気付く。痛みが出ているポイントも広範囲だ。鍼治療をしたばかりだというのに不安が過ぎる。単なる筋肉痛か、それとも腰痛が悪化しただけなのか正確な判断が下せない。ただ、体感的には筋肉痛混じりの腰痛という感じで、腰痛の方に主が置かれていそうだ。たった3~4時間歩いただけでこうも悪くなってしまうのかと、弱体化した自分の肉体に苛立ちと情けさを感じた次第。

しかし、このケースも一応想定した結果の一つではあった。元々のウォーキングの動機は、通常よりもハードな運動および負荷を掛けて腰の状態がどう変化するかを見極めるための一種のトライアル。運動を加えることによってより開放に向かいそうなら、今後も運動量を増やしていくし、逆に腰痛が悪化したなら悪化したで、今回のような過度な運動は控え従来通りシックスパッドと多少の筋トレ、そしてストレッチというルーティーンに戻すまでのこと。悪くなった時のために、鍼の先生にも「もし悪化したら(治療を)ヨロシクお願いします」と最初から宣言している。

だから案ずることはない、何も。いつもと違った動き、習慣を外れた行動を試す時期が来ていたのだ。チャレンジすべき時だったのだ。長期間の停滞や現状維持は、身体と何より精神を蝕んでいくものだからこそ、「行けるかも?」と思った時こそが行動の時。閃きを無駄にするな。
 
 
■中途半端な休みと気持ち
そう自分自身に言い聞かせながら、出掛ける前の朝コーヒーを飲んだ。今日は仕事だ、面倒臭い。ゴールデンウィーク最中の出勤だから尚更気が乗らない。こういった飛び石連休だと、公的メンタルと私的メンタルとの切り替えに失敗しやすく、激しいアップダウンに対し即座に適応できない場合も多々見られる。結果、中途半端な気持ちのまま日々を過ごすか、変な風に燃え尽きて厭世観たっぷりの廃人と化す。悪循環と言える。

本来、時間は24時間シームレスに続くはずで、『区切り』なんて無いはず。概念として勝手に区切っているだけの話だ。区切ろうとすればするほど継ぎ目が多くなり、継ぎ目に差し掛かったとき切り替えに失敗すれば、不完全なままズルズルと行ってしまう。頭で区切ろうとせず、考えるのも、動くのも、全てのアクションを機械的に、無意識的に、淡々とこなすのが理想だ。

たとえば片山右京のような天才なら、何も区切っていない。目の前にある事象を冷静にこなし、未来に見える事象を思い描きながらその準備を整えるという作業と、過去の復習とを同時並行で行っていく。何日の何時何分からというのではなく、思い付く都度考え、動き、形にし、ぞれを途切れることなく延々と続けていくだろう。

つまり、メリハリをしっかりと利かせられる人間なら、または仕事にもプライベートにも両方楽しみを見出せる前向きな体質ならば、飛び石だろうと長期休暇だろうとあまり関係ないということ。

その観点から自己分析するに、俺はメリハリがない。働きたくないでござる、絶対に働きたくないでござる、という基本信念を持ちながら、生きるために嫌々働いている状態。ゆえに仕事に対する情熱もなく、大した向上心もなく、だけど小心者のためついつい真面目になってしまうという一番中途半端な姿勢のまま一体何十年過ごしてきたのか。

あれだったら本気になれるのに、あの仕事だったら命を賭けてもいいのに。そんな秘めた想いを持ち、持っているフリをして、だが現実はそうなるための努力もせず、そんな自分を恨み、憎み、だけど自傷自殺するほど実は自分を追い込んでいなくて、つまり変わらなければならないのに変わろうとしない中、ふとスロで勝ったりすると何もかもすぐに忘れ、そんな前に進まない自問自答を繰り返す内に精神は消耗し、不貞腐れ、一時的にそれを忘れるためにまた程度の低い遊びや暇潰しに興じ、現実から逃げることを覚えていく日々。全く持ってメリハリもクソもない。自分が何をやっているのか最近とみに分からなくなってきている。

そんな性質も手伝って、余計にこの5月1日、そして翌日の2日というGW合間の仕事が億劫でしょうがない。ただ、別に俺に限ったことではなく、ウチのようにカレンダーに則って営業する職場などでは、手持ち無沙汰になることも多いのではないか。自分等は仕事をしていても、取引先が休んでいれば大分無意味。やりたくてもやれない、進めたくても進められないというケースに陥る。

そもそもの大前提として、やる気が出るのかどうかという点が大分疑わしい。3日休んだ後、2日出社して、また4日間休む。ジェットコースターのように緩急の差が激しい。ダルビッシュのスライダーのように有り得ない変化をする。元々消化試合みたいなものなのだ。身も心も付いていけないというか、心の準備が不十分。よってGW中に突如現れる出勤日がどれだけ弛緩するものか、どれだけ気合が入らないものか、想像に難くない。

だからこういう場合は、せせこましく出社などせず、その2日間もくっ付けて9連休にすればいい。長く休み、なるべく長い間遊びたいというよりは、その方がまだ健全であり自分のためになる。9連休、10連休など正気の沙汰じゃないと妬む者も多いだろう。俺もそういう奴等が妬ましい。だけど間違っているとも思えない。10日休もうが、1ヶ月長期休暇を取ろうが、あるいは逆に週休一日とか事実上の休みなしで働くという過密スケジュールだとしても、長期的に見て本人が向上・成長し、あるいは本人が納得しているのなら、休みの概念などどうだっていいのだ。

大切なのは、どれだけ余暇を増やすかではなく、いかに自分だけの時間を持てるかではなく、どれだけ充実しているかという点のみ。振り返った時、使った時間に対して恥ずかしくなければ、自分で納得し誇れれば、それが正解となる。自分の時間は自分にしか与えられないし、自分でしか管理できない。使い方は自由、しかし有限。尽きたら全てが終わる。無かったことになる。その事実を何度でも、毎日でも思い起こすべきだろう。

だが現実として、このGW中日の出勤日は気だるすぎる。年度末に締めた書類の数々を作成・提出したら、もう力尽きて眠くなってきた。仕事中に眠くなることはあまりないのだが、今日は心から眠くて仕方ない。周りを見渡してみれば、他の従業員も明らかに弛緩・脱力しているし、士気は下がる一方だ。こんな環境は精神衛生上よくない。早く出たい。出て、秋葉原に寄って、ジャグラーを打つんだ…!
 
 
■大負けの後のマイジャグラー
8時頃、ようやく上役も会社を出て、上がる準備は整った。この「上役が帰るのを待つ」という因習はホント無意味かつ無駄な待機時間だ。他の従業員と話すのも面倒臭いというか、最近特に他の従業員と感性が合わなくなってきているので会話するのも面倒臭いというか、同じ環境に身を置く分だけ消耗する気分がするので、さっさと1人で会社を後にしアキバへ向かった。

アキバにて、いつものホールに入り、マイジャグラーに座る。GW初日の土曜、盛大に負けて4月の勝ち分の8割を放出してしまったショックから、しばらくやめようかとも思った。しかし厳密に言えば休日に、さらに長時間このホールで打つのがダメなのであって、平日の仕事後短期決戦ならば十分に分があると踏んでいる。よって、崩れかけた体勢やバイオリズムを取り戻すためにもここは敢えて立ち上がるべき。当初の予定通りマイジャグを打つことにした。

大局的にはゴールデンウィーク期間とはいえ、カレンダー上では平日のためか、スーツ姿のリーマンも意外と多い。こいつ等もきっと、仕事でムシャクシャした気分をスロで発散させようと目論んでいるんだろう。勝てなければ発散どころか余計にストレスが溜まるだけだけどな…。なーに、勝てば問題ないのだ。

そんな気軽な調子でまずは台選定。俺は最初、土曜日に大負けを喰らった二台の内、どちらかに座ろうと考えていた。俺が大いにハマッた土曜から、日曜・月曜という2日間を挟み、火曜である今日を迎えている。設定がどうであろうと、スランプグラフ的にはそろそろ爆発するタイミングに差し掛かっているのではないかと。

しかしその2台の今日の成績を見ると、一方はB3R2くらいで300Gとか400Gとかのハマりを頻発させているようだ。もう一方の台はというと、まだBR共に0という、もう少し回してみなければ何とも判別のし辛い状況。その回すリスクを自分で取るのは嫌な予感がする、ということで、別の台を探すことにした。

こういう「もうそろそろ出るだろう」と思う台ってのは、えてして自分が思うよりも1日か2日後にずれるものだ。だから基本的には「これはそろそろ爆発する」と思った翌日か翌々日に打てば、歯車がピッタシ合うと考えている。それを我慢できず、衝動的に座ってしまうのが愚策なのだ、と。

気を取り直した台選びにて、俺はB4R6の後、200Gほどで放置されている台を発見。少し前にジャグ連をしているようだ。しかもそのジャグ連が古いものからR、R、R、RとREG4連、その後200G以内にBIGが来て、そのBIGも飲まれて放り出し、現在200G近辺といった感じ。

合成確率を見ると、1/145くらいとかなり良好。ここまで高確率になると、簡単には1/200を超えたりはしない。大体1/160~1/170くらいまで押して、そこからまた1/150、1/140、と戻していき、どこかでジャグ連が入り1/130→1/120→1/110と、一気に合成確率を上げる結果へと急速展開を見せる。しかも直近REGに偏っているので、これからBIG主体の連が続く公算は高いのではないか…。そんな分析の下、俺はその台を打ち始めた。

しかし、どうもイマイチな雰囲気。ブドウの落ちはそれなりだし、合成確率や前日前々日などの履歴を見ても、今日こそが理想的状態と頭で思ってはいるのに、なぜか光る気が全くしない。多分、土曜の負けの時の嫌な記憶が身体を金縛りに遭わせている。脳を麻痺させている。実際、打ってても何となく上の空だ。土曜の最後の頃は本当に生ける屍だったから。もうこうなったら、屍状態のままレバーとボタンを淡々と叩き、運を天に任せて光るのを待つしかなかった。かなり他力本願だ。

ジャグラーなんてのは基本他力本願なんだろうけど、それでも自分の意志でゲームを操っている感覚を持つのは重要なことであり、自分のテンションを自在に演出している時には非常に好調な脳波が流れるもの。その脳波を全く感じない。これは、いかん。もう何でもいいからどこかでとりあえず光ってくれ。虚ろな目でただボタンを押し続けた。

と、370Gほど回したその時、ピカッと突然ランプが点灯。しかもビック確定プレミア。ようやくきたか、とりあえず光ってくれたか、まずはきてくれたか、そんな想いが強かった。かなり弱気である。弱気ゆえにBIGを消化した後、ジャグ連する気がなぜか全く起きない。そして予感通りあっさりと100Gを抜ける。ヤベー、ヤベー、虚ろだからって気を抜きすぎだ。もっと真摯に、もっとジャグラーと一体になって、いつものようにテンポよく、リズムよく、不動の心で淡々と打ち込むべし。まずはこのBIG分を全て打ち込む。光らなくても焦らず、動じず、ただ打ち込む。話はそれからだ。

そう決心して打ち出していると、50G近辺でペカる。「おっ、意図せぬ時に来る100G連、これはいい感じ」と頬が緩む。しかしREG。かなり肩を落とした。この後100Gを抜けてしまうと、1セットのみ、あるいは連無しの粒というダラダラした悪循環に陥りそうだからら。しかし、まさにこの1セットで終わってしまった。BIG分も飲まれ、追加投資が始まる。

400G近くまで持っていかれたか、ようやくBIGを引いた。しかしその後がまたもREGの1セット。再び200Gを超えペカるもまたREG。そこから連するが、それもREG。いくら何でもREGに偏りすぎじゃね? 気付けばB6R10とか、さらにREGへの偏りが酷くなってきている。合成確率は1/160程度と決して悪くない推移を見せているのに、コインが増えない。頼むよ…。

だが、1セットもなく300G付近、150G付近。200G付近で当たりという塊を通過しかけた頃から、そろそろ爆発の予感を抱き始めていた。本当にいい台は、100~200Gで当たり、そこから4~5連のジャグ連をして、また100~200Gあたりで当たってジャグ連という見事な推移を見せるのだが、今打っている台のように、ジャグ連がちゃんとあり、ハマりも500とか600などには決して行かず、100G~200Gあるいは300G近辺の小ハマりが連続した後、突然覚醒してジャグ連に入るケースはよくある光景。俺はまさしくその覚醒を待っているし、多くのジャグリストもそうだろう。そういえば俺が打つ台の2つ左の台に座っていたリーマンのおっちゃんも、まさしくその瞬間的ジャグ連による一気通貫で出しまくっていたな。30~40分で二箱近くまで積んだか。ジャグラーでは別に珍しくない現象だ。

そして俺にも、その現象が遂に訪れる。150G近辺からプレミアでのBIGを引き当て、そこから怒涛のジャグ連。最初にBIG3連、そこから後はREGも含むけど、都合5連か。そして連を一旦抜けたが、130GくらいでまたBIGがペカり、3連。好調子のまま閉店ギリギリまで粘った結果、B14R18、くらいだったか、とにかく楽しくて仕方ないラスト1時間を過ごし、1500枚のコインを流して意気揚々と帰宅するのであった。

ジャグラーは、運が良ければ超短時間で勝つことも可能。2分で5000円勝ちも十分有り得る。だがそれ以上を望むなら、一箱二箱まで希望するのなら、やはり一定の時間と、心の粘りは必要だろう。連するまで、コインが吸われていくのを耐え忍ぶ忍耐力が、最終的な大勝と、そこにいたる起爆剤たるジャグ連を導くのだと、ジャグリストならば肌で感じているはず。

まったく言うまでもないが、ジャグラーはジャグ連してなんぼである。ジャグ連しないジャグラーなど打つ価値も打つ意味もないということを胆に銘じ、電車に揺られる俺だった。
 
 
■吉野家
駅に着いたら、もう23時過ぎ。嫁が仕事から帰ってくるのが多分23時半頃なので、先に家に帰らず、駅周辺でメシでも食いながら嫁を久々に待つとするか。マックは閉まっているし、日高屋はなかなか良いけど昨日ラーメン食ってるので何となく今日は避けたい。吉野家で牛丼を軽く食う程度に抑えた。

食ったのは牛丼の並盛、玉子、味噌汁、ポテトサラダ。これで600円はまあ、安いよな。オーダーを取る時、会計する時、店員がカウンターの中にニュッと侵入してくるシステムは、初めて吉野屋で牛丼を食った20年以上前から変わらない。牛丼の味も、何だかんだであんま変わってない。良くも悪くも安定したクオリティである。BSE問題で崩落しかけた一件を除けば、それなりに安定しているのかもしれないな、吉野家も。客は少ないけど、なぜか潰れないという。

しかし、店員の質はどうか。それは見る客の目によるが、俺は牛丼を出してくれた店員兄ちゃんの牛丼を食ってる時、いつもと違う感覚があった。今日、こんなことがあった。

牛丼をハフハフと食っている最中、箸をご飯の中の方まで突き刺し、温かい米とアツアツのはずの牛肉を取り出して口に入れたのだが、口の中に冷たい感覚があった。固いものをゴリッと噛んだ気がした。アツアツの牛丼を食う中、いきなり氷のようなアイスクリームのようなものを放り込まれて一気に冷めるテンション。「何だこりゃふざけんな!」と、最初俺は店員の方にキッと恫喝の視線を投げ掛けたものが。

しかしそれは、実のところ俺が先ほど箸で掴んだポテトサラダのポテトの塊が、牛丼の中に落っこちたものだった。突然冷たくて固いものが口を襲ったと思しき物体は、俺が自らの手で異動させたポテトサラダであった。勘違いも甚だしく、恨む相手も筋違い。ほんとスンマセン、店員さん…。俺は心の中で謝罪した。

牛丼、そこそこ美味しかったです。そこそこってのは、褒め言葉です。いつもと変わらない、期待通りの、枠を踏み外さない安定感ということです。
 
 
■帰宅後、花を愛でる
吉野家の後、嫁と合流し久々に一緒に帰宅する。嫁は、働いている新店で飾られていた祝い花の一部を持って帰ってきていた。それを花瓶に活ける。部屋に花が飾られるのも久々で、それをじっと愛でる時間も最近あまりなかった。ちょっとした心の余裕が、周囲に目をやるゆとりを生む。花は、そのきっかけの一つに違いない。

花は綺麗である。それを眺め見る者の心も、きっと綺麗に違いない…。

20180416(月) ストレッチを継続しようとする努力と、英彦山を知ろうとする努力の方向性

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー、プッチンプリン
 
【昼メシ】
・職場付近/ローソン肉まん
 
【夜メシ】
・家/ハッシュドビーフ、キャベツ千切りオリーブオイルサラダ、冷奴、プロテイン、英彦山まんじゅう
 
【イベント】
仕事
 
 
【所感】
■ストレッチとコーヒーとTVの朝
朝7時に起きて、日課である腰痛軽減ストレッチを約20分続ける。その後シックスパッドを装着し、腹筋をブルブルと震わせたまま目覚めのアイスコーヒーを飲んでまずは一息。まあ飲んでる最中にもシックスパッドは、工事現場でアスファルトにドコドコと穴を空けていく穴掘機のように容赦なく腹筋を連打してきつつ、ベアーハッグするプロレスラーのごとく無慈悲に腹筋を締め付けてくるのて、一息というほど安楽な状態でもないが…。

それでも3週間続けてきた成果かシックスパッドの攻撃にも大分慣れたわけで、腹筋を襲う衝撃でたまらずコーヒー吹き出すといった心配も今ではもう無くなっている。今現在、シックスパッドの電流強度LVは正面、横、どちらも既にMAX、すなわちLV20に達した。これ以上の強度はもうない。購入時、「LV20で1ヶ月間みっちりやればロナウドのようになれますよ」と言った店の姉ちゃんの言葉は全く信じていないが、それでも始めた時がLV15か16だったことを考えれば、腹筋が強化されたのは間違いないと思われた。上を目指す余地がまだまだ残る。

朝のアイスコーヒーに加え、今日はもう一品摂取した、昨日嫁が買ってきたプッチンプリンだ。ヘルシーには程遠い甘ったるさは、プリンの理想形とはとても言えない。他メーカーからも続々と新製品が登場する日々だ。しかし何故か、プリンと言えば結局グリコのプッチンプリンに落ち着いてしまう不思議。その中でも、普通のプッチンプリン。かつて出てきた様々なサイズ、つまりビッグプッチンやハッピープッチンやミニプッチン3個セットでもなく、あるいはイチゴ味やショコラ味など様々な味変バリエーションでもないスタンダードなプッチンを、スーパーのコーナーでそっと手に取る自然で当たり前すぎる自分の仕草について、ふと考えたことはあるだろうか。

それは商品の持つ魅力、すなわち王道が放つ存在力か。それとも消費者の心理的な要因、すなわち原点回帰と言うべきものか。いずれにしても、恐らくは刷り込みされている。確固たるインプリンティングがそこにある。しょうゆとんこつ、北海道バター、明太子など様々あれど、結局はポテトチップスうすしお味に戻る心境のように。カレー味、ラー油味など新製品が続々登場しながらも、普通の柿ピーがやはり一番美味しいと言い切ってしまえる亀田の柿ピーのように、きっと譲れないものがある。抗えないものがある。

背景はどうあれ、プッチンプリンがプラスされた分、今日の朝メシはいつもより豪勢だと思った俺は、隣に座る亀二の横顔を眺めながら、TV朝日のグッドモーニング・依田司のお天気検定に備え始めた。経費で全国の有名スポットに行ける依田の肩書に嫉妬心を燃やしながら。羨ましい。いや憎たらしいとすら、思う。だけどその状況を作り出したのは、依田本人の努力の賜物。恨むのは筋違いと言うべきだろう。

それよりも最近、依田の出す問題が結構難しくなっているのが気になる。4月に入って既に月半ばだというのに、ポイント数はまだ30ポイントを超えてないのだ。先月に引き続き、今月も60ポイント未到達の危機が忍び寄ってきている現実は認めざるをえない。毎朝起きれば実感する、今そこにある危機。ハリソンフォードにも引けを取らない。

かといって、林修のことば検定を併用してポイントを稼ぎたいほど熱心でもない。応募して早や1年以上経つ現在、賞品が当たったことなど一度たりとも無いのだから。そもそも眠くてそんな朝早くに起きられない。ストレッチをして朝メシを食うのが時間的に精一杯な現状が悲しい。
 
 
■腰痛ストレッチ
それにしても、このストレッチを始めてもう丸2年になる勢いだ。よく挫折しないものだと自分のことながら感心するが、それを止めてしまうとまた腰痛が悪化する可能性が高いので止めるわけにはいかない。危機感から止めることができない。壊れるまで走り続けるのだ…。

既に壊れているのに、それを治すために、治ったら壊れないようにするために、壊れるまで走り続ける。そんな三段論法にもなっていない矛盾は置いといて、実際完治するとは思ってない。そこまで図々しくない。腰痛のごとき類のものは、それが軽度であれば完全回復、完治もありうるが、重度のレベルまで到達してしまった場合、ほぼ絶望的だと考える。

重度の腰痛。それがどのレベルなのかは人それぞれで異なるだろうし、なる人ぞ知るという曖昧な世界。しかし曖昧ゆえに、本人にしかその痛みや苦しみが分からない。気持ちは分かるけど、肝心の「どんな痛みなのか」という部分が分からない。同じ腰痛持ちでも、千差万別なのだ。かといって口で説明するのは困難極まる。他人には分かりえない孤独な世界、一匹狼になるしかない。たとえるなら空を掛ける一筋の流れ星のように自分の世界に閉じこもるしかない。こんな悲哀があろうか。

ともあれ、一度なってしまったら終わりと考えるべき。男には自分の世界があると斜に構え、腹を括る方がかえって得策。残された道は完治ではなく、痛みの軽減であり、痛みとどう付き合っていくかの模索である。世間の腰痛論者が述べるその達観を背にして、腰痛『防止』ではなく『軽減』である動かしがたい事実に対する無念を胸に秘めて、せめて痛みを和らげるべく日々努力しようではないか。

身体がほぐれて朝から快調、気分も爽快。それがストレッチの本来の効能のはずだが、そんな浮ついた気分を抱くことなく、今日もストレッチを無難にこなした。到達しない山を登り続ける修行僧のように。我、永遠の修験者なり。
 
 
■無駄なリソースの使い方
とはいえ、毎日起床した直後とストレッチ後の痛みレベルをを比較して、または日中デスクに座っている時、歩いている時、メシを食っている最中など、シーン毎に痛みレベルをチェックして、「少し調子が良いかもしれない」「いつもより痛みがある」などと、ほんの少しのブレに一喜一憂するということは、例えるなら1TBしかない容量の内、300GBはOSやシステムに取られているので実質700GBの能力しか出せないHDDのようなものだ。

すなわち、限られた脳みそのスペースの何分の1かを本来不必要であるはずのものに対して割くことによって起こりうる全体的なパフォーマンス低下の弊害を指しているのであり、その弊害とはつまり優先順位が低いのにタスクバーに常駐するアプリに対する苛立ちのごとく心を乱す要因であることに疑いがないのもさることながら、本質的にリソースの無駄であるという断言は避けられず、しかし何より余計なものに常に気を取られると思考が散発的になるという当たり前だけど極めて致命的な人としての反射行動が引き起こす負の連鎖的こそが恐ろしいのである。

思考が散発的になってくる。反比例して集中力と持続力は低下する。当然のことだ。集中力とはすなわち内部的に突き詰められる力であり、自ら結論を出せる能力。ゆえに集中している時は外部からの影響を受けにくい。外部とは、文字通り他者を含めた周囲の環境なり思想なりを指すけれど、自分の中における葛藤なり誘惑なり反証といった敵対勢力、いや敵対思想といったものも該当する。

集中力があれば、それら自らに宿る敵対思想は取るに足らぬ些事となる。しかし逆に集中力が途切れていくと、これら敵対思想の影響を受けやすい。あっちに行ったり、こっちに行ったり、フラフラと定まらない。その状態が続くと、やがて一つの物事を初めから最後まで貫徹することが難しくなってくる。根本的に一本筋の通った言動が出来なくなる。

その浮ついた心根は、他者からの信用を失うことに繋がる悪徳。信用を失えば自分を相手にする他者は減ってくる。眼前に孤立していく未来が見える。何とか修正しなければならない。しかし信用を取り戻そうと思っても簡単には立ち上がれない。そうするためには努力が必要だからだ。しかし、精神が散漫になっている状態では、その努力こそが極めて難しい。まさに負の連鎖と言える。

一旦失くした信用を再構築して仲間を得るのは長い月日と努力を要するが、孤立するのは簡単かつ一瞬であり、しかも努力を必要としない。あっという間に吹き飛ぶほどに脆い。同じ状態が続けば徒労感を引き起こすには十分だ。その徒労が長期間続くことこそ、生きた屍への最短ルート。

そうならないよう、無駄な考えに脳内HDDを支配されないため、何としてでも腰痛を滅殺する必要性があり、その努力を怠らないようする所存であった。
 
 
■単語としての「努力」と本質としての「努力」
それにしても、努力…。好きな言葉でもあるし、嫌な言葉でもある。そもそも、時代によってそれに対する評価が変わる。ふた昔前、その言葉は美徳だった。ひと昔前あたり、その言葉は時代遅れで格好悪いという風潮の中、影を潜めた。そして今現在、その言葉は再び美徳として、いや必要な資質として認識されている。いや賛美すらされる始末だ。鍛錬とか継続とか、他にもトレーニングやエクササイズ、あるいは自分磨き、自己への投資など、言い回しをアレンジさせながら…。

結局のところ、表現方法を変えただけで、人間本来の本質はいつの時代も殆ど変わらない。数年単位のブームの移り変わりと、数十年単位で循環するトレンドと、それらの積み重ねによって突発的に起こり得るパラダイムシフト、それらの集大成として数百年に一度発生するであろうレボリューションの中、いつの時代の人間達も根本的には同じようなことを感じ、同じようなことを述べ続けている。

いいヤツは好かれるし、いやなヤツは嫌われる。男は度胸、女は愛嬌。あるいは男は甲斐性、女は器量。等々…。時代によって言い換えているだけで、本質としては時代を超えた共通意識であり法則であり摂理と言ったものが存在するに違いない。その摂理の中に、努力という言葉も含まれる。

では努力とは何のためにするのか。それは得るためであろう。であれば、得るためには努力せねばならない。努力しなければ得られないからには。そんな時代を問わない不変の法則。

そう、基本的に努力しなければ得られない。ほぼ間違いなく。だけどその努力の基準がどのくらいかという問題になれば、それは個人の主観においては大きな幅があるが、本質としては主観など全く関係ない相対的な世界であるのが現実だ。つまり、努力した結果、他者から優れていると見なされるか、すなわち得たいものを得ていると思われているか。それは自分の思惑など関係なく、他者が決めることである。自分がそう思っていても、周囲がそう思わなければ得ていないということになる。

なので努力するにしても、自分の基準ではなく基本的には他人の基準、いや世界の基準に合わせて努力することが得るための近道なのだが、あまり主観で生すぎると他者に合わせるということがなかなか出来ない。加えて、先述した散漫思考による集中力の欠如が引き起こす継続性の喪失は、努力することをより困難にするというわけだ。

得られない、そのための努力もできない。だけど得たい。楽をして得たい。本来それは不可能であり、虫がいい話。でもそうしたい。ならばどうするか。どう振舞うか。

虚勢を張らねばいけない。大げさに言わねばならない。そのために自分を偽り、他者を騙し、相手の感覚を麻痺させて、雰囲気を作り、空気に酔わせ、有るものを無いと、無いものを有ると思わせる世界を作ることが必要。作り上げた混乱状態の中、どさくさに紛れて掻っ攫い、奪い取る。つまり得る。全ては得るため、不当に得るために…。

そう考えたということは、自らは気付かずとも既にそのように行動している可能性が高い。朱に染まれば赤くなるパターンだ。そうなると品性はみるみると劣化していく。そのことに気付かず、あるいは何とも思わなくなる。感覚が麻痺している証拠だ。麻痺していけば突き詰めて考えることもできない。より核のない、虚ろな、流されやすい体質に変わっていく。

結果、たとえば「飲むだけで痩せる」と喧伝されるダイエットサプリなどに手を出すようにもなる。そんなことは不可能だ、と深層心理では分かってるくせに手を出してしまうわけだ。

明らかな誇大広告に乗せられて、その根拠の無い宣伝文句の意味を考えず、宣伝している側の思惑や利害関係に思いを馳せず、騙されて買ってしまうことで被る被害は実のところ金銭的被害だけでなく、もっと致命的なものがあって、それはすなわち「努力しなくても得られる」という勘違いを当人が持ってしまうことで、そうなると自分自身努力や苦労を避ける傾向になり、何でも表面的になり、それを言い訳するような人間になってくる。

そんな人間に変貌することが引き起こす絶大な被害を予想できたのなら軽率な行動は回避すべきだが、その単純な予想すら思い付かないのが現実。すなわち簡単な損得勘定すら出来ない状態だ。そんな状態では、嘘臭く安っぽい、ただ相手の激情を刺激し感情に訴えるだけの明らかなステマ宣伝文句にすら抗えまい。その裏を取ろうとする気概はないし、そのために少し手間を掛けることすら出来なくて、当然小さい文字で書かれた「あくまで個人の感想です」的な但し書きにも気付かない。気付いたとしても、楽な方に走りたいからむしろ気付かないフリをして、万が一があるかもしれないと甘い幻想を抱く。

その幻想をより確かなものとするため、とりあえずネットを開いて該当するサプリを「サプリ 評価」などとグーグルでキーワード検索し、その検索上位5~6箇所くらいのブログ記事なり、キュレーションサイトなどを流し読みして、好印象な結果が少しでも書いてあればそれを自分の中で最大限拡大解釈し、「効くかもしれない」と自分自身に言い聞かせ、最終的には購入へと至る。

そもそも、そのネット検索上位の殆どが愚にもつかないブログやキュレーションサイトだという現状を把握できていないのが既に手遅れ。少し気を張っている人間ならばすぐ分かる。それらブログやキュレーションサイトこそ、まさしく金のためには誇大広告でも何でも書き連ね、嘘だって余裕で吐けるアフィリエイターや提灯ライターの巣窟だということに、いい加減気付いた方がいいだろう。

とにかく売って終わり、売りっ放しがその手の商品の特性であり真骨頂なわけで、それをするためには何だってやるに決まってる。TVを始めとするマスメディア媒体で、すなわちより衆目が集まる場所で、誇大でも何でもとにかくまずはぶちまける。買わせるための心理戦を仕掛ける。ステマも使う。ヤラセも使う。そのために報酬を払うのだ。

結果、何割、何パーセントかは引っ掛かるだろう。引っ掛かれば十分に利益が出るし、口コミ効果で別のカモを見つけてくれるかもしれない二重得。ポータルとしては「あくまで個人の感想です」と書いて回避すればいい。個人が勝手に騒いでることだと、勝手にやっていることで、勝手に言っていることだと。何も強制していないし、報酬や見返りなど何もちらつかせてはいない。

そんなわけがない。むしろあらゆることをやっていると考えるのが自然。商品力ではなく、使用者の感想を軸に宣伝をする。危機感や感情に訴えかける。これこそステマでありヤラセ広告の常道だ。買わせる手段があるのに、やらないはずがない。

そのなりふり構わない手法を実践するための衆目の集まる場所として、今現在ネットに比重がシフトしてきた。そのネットで同じ種類の者達が同じことをしたとしても、何の不思議もない。ネット上には今、呆れ返るほど無責任で煽るだけのステマが横行している。そんなページが検索上位に来るから、それがさも真実であるかのように捉えるユーザーが増えて問題がさらにややこしくなる。

小遣い稼ぎが目的のステマやアフィリエイターごときに真に迫る記事など書けやしない。そこには魂が感じられない。編集責任を負うという自覚もない。だから薄っぺらい言葉の繋ぎ合わせで良しとして気軽に載せる。ほんとペラペラだ。読む価値がないというか、時間の無駄。その時間の無駄を多数のユーザーにさせているのだから、まことステマやアフィリエイターとは罪深い存在だ。

Webニュースサイトやニュースアプリの記者も同じようなものだな。とにかく文章が稚拙で、完全にSNSレベル。常人では書けない文を、思想を、分析を与えるのが彼等の本来の仕事なのに、こいつ等は文章を舐めているのかと言いたいところだ。

そういった背景に思いを馳せることなく、ダイエットサプリなどを平気で買うからダメなのだ。これも努力知らず、苦労知らずゆえの失態。それについて少しでも努力している人間なら、また正常な思考で判断できる人間ならば、痩せるには運動やカロリー計算なども併行させねばならない現実は普通に知っているわけで、飲むだけで痩せるという言葉を使っている時点で、またそう思わせるような言い回しをしている時点で、その商品およびそれを紹介する人間は信用できないと即断するのが通常すぎる在り方。

見えなくなっている者には、その通常が分からない。だから少なくとも俺は、痩せ薬を買って飲むだけで他に何もしないことに一切価値を見出さないし、その痩せ薬を売ろうと必死になっているアフィリエイター達の品性は下劣だと決め付けている。

そして自分の経験則から、痩せるにはサプリ等よりも、運動こそが最も必要だと確信している。そこら辺の上辺だけの言葉を拾って掻き集めただけのキュレーションサイトなどより数段の説得力を持っていると自任している。そう思うのが普通なのだ。表現の仕方や言い回しには十分注意を払いたいものである。

表現の変化と言えば、ここ数年で多用されている言い回しでイマイチ受け付けない言葉も結構ある。たとえば「進化」という言葉。スポーツ選手の特集等でよく使われるが、進化は言いすぎ、成長で十分だろう。あとは同じような何かを特別視する際に使う「絶対」という言葉も軽々しく使うものでもない。「神」、「○○すぎる」などの形容詞も同様。まさに言葉を軽んじている代表格だ。神対応とか言われても、聞けば普通のことじゃん?という感じで、どんだけ基準が低いんだよ、となる。美人すぎると言われて見てみても、大して美人じゃなかったり。

あまり最上位の言葉ばかり多用していると、価値観が変になる。形容する対象がおかしい、比較がおかしい、基準がおかしいと、最近とみに感じる次第だ。

しかしその根底にあるのは、それを口にする人間そのものの劣化かもしれない。取るに足らぬことを大きく見せようとしすぎ。やったことに対して過大な対価を求めすぎ。総括として、甘えすぎ。ということだ。努力なしに不釣合いなものを得ようとすると、言動まで浅ましくなるので気を付けた方がいいだろう。

差し当たり、目下の重要事は腰痛軽減。あわよくば撲滅。そのためにすべきミッションだ。これは腰痛が多大に悪化した5年前から変わらぬ最優先事項。5年前の腰痛激悪化は俺にとって人生でそう何度も無いはずのパラダイムシフトの一つであった。景色が変わるほどに…。
 
 
■定期ジャグラー
仕事後、秋葉原に向かいマイジャグラーを打つ。会社のデスクに長時間座り、ただでさえ腰に良くないのに、その仕事が終われば今度はさらに骨盤に悪そうなパチスロ台の椅子に座るという暴挙。鍼治療の先生から受けた助言、そして自らに唾する背信行為だ。

そう自覚しながらそれを止めないのも、ひとえに日々蓄積する鬱憤なり無常感なりを少しなりとも晴らしたいという気持ちであったり、気を紛らわすためであったり理由はあるけれど、しかしそれは単に逃げてるだけじゃないか、その時間を別の努力にこそ費やすべきだろうと毎回毎夜自問自答もするけれど、なーに、勝てば問題ない。核としては小遣いを稼ぐために打っている。これが根本的な理由だ。当然、勝たなければ小遣いにはならない。それが不可能でないと最近知りつつある。

だからわざわざジャグラーを選んだ。偽物語、そして化物語が撤去されてからもう戻ることはないと思っていたが、マイジャグラーならば小額なれど、あるいは…。

マイジャグラー。秋葉原のホール。定期で通っているので各台の挙動はある程度把握している。あとは1週間前からのスランプグラフと、何より合成確率で判断するのがマイジャグラーを頻繁に打つようになって変わらぬ基本戦略だ。その基本戦略の前には設定判別など無意味であり、時間の無駄と言える。仕事後、1~2時間の勝負なら尚のこと意味がない。

というわけで、先週打っていた台なども参考に、本日1台目に座る。しかし挙動が悪いので2K投資後、もう一つ狙っていた台に台移動。それは金曜日に俺自身が打っていて、最終的に力負けで呑まれた台だ。その先週金曜と土日のスランプグラフ、そして今日の今現在までといの都合4日間の合成確率を見る限り、閉店までにはジャグ連すると分析した。少なくとも3粒連は行くだろうと。

その台は座った時点でB1R3だったか。700G近辺でBIGが当たり、その後200G近辺のREGを3発続けて最終的に200G手前で放置されている、という挙動。これが示すのはつまり、今日は全く連していないということ。さらにREG先行だ。もう今すぐにでもBIG寄りのジャグ連に突入しそうな雰囲気を醸し出している。まさに舌なめずりする台だ。

その予測をさらに後押しするのが、前日つまり日曜の合成確率。1/270くらいだったか、かなり悪かった。だが前々日つまり土曜は1/170くらいでまあまあ。そこからさらに一つ前の金曜日、つまり俺が打った金曜日は、最終的に1/160まで合成確率は上がった。

それら4日間の挙動を見れば、先週金曜に調子が上がり始め、土曜もその流れをある程度引き継いだけれど爆発はせず、不運なことに爆発しないまま日曜も振るわず終わり、本日月曜もまだ確率の悪いまま…。もう出るしかないじゃないか。でちゃう!ガールが来そうな勢い。

その間、設定変更は多分ない。このホールは恐らくだが、週に1回しか変更しないはずで、少なくとも土日や月曜よりも、木金あたりに設定変更してるのではないかとここ数週間の経験則から予想を立てていた。

それに、設定が変わろうがそこまで関係ない。どうせ設定5や6なんて殆どないのだ。1台も無いかもしれないし、むしろそのように考えていた方が無難。一日スパンでは測れない、台の長期的バイオリズムから打つべき台を導き出すのが正解なのだ。

その正解への予測に基き打った本日の台。4KほどでペカってBIG。別に幸先がいいとは言えない。当たり前のことだ。それに1~2Kで掛かると思っていたから万全ではない。ただ、前にREGが続いていたので今回のボーナスは多分BIGだとは思ってた。

ともかくこれで200G前後の当たりが4連。そろそろ100G以内の連が来るだろうと思っていると、期待通り20G少々でペカッと光る。ジャグ連契機きたかガタッ…! とほくそ笑んで揃えたがREGだった。これは肩透かし。いやむしろ不安材料だ。REG×3からBIG1回挟んでまたREGというのは何とも不吉な…。

そして嫌な予感が当たったのか、連はそれで終了。さらにジャグ連どころか200Gを超えてもウンともスンとも言わず、全て呑まれて追加投資へと追い立てられた。

これはいけない、と思った。流れが悪いのもそうだが、問題なのは時間がないということ。閉店まではまだ1時間半以上あるし、打てばまず盛り返すだろうけど、今日は早く帰らねばならない日だった。打ち始めてから30分程度経ったが、残りせいぜい30分も居られない。何で寄らなかったのか、BIGに。というか何で寄ってしまったのか、ホールに。

そう、やんない方が良かったかもしれない。最終的に勝てばよかろうで、その自信はある。しかし重要なのは時間内にそれをやり切ること。2時間なら2時間で、1時間なら1時間で、30分なら30分で最終的な勝ちに持っていかねば意味がないし、与えられた時間から逆算し、その勝ちにこぎつけられると判断できなければ最初から打つべきではない。まさに今日はそんな日だった。これではまるで、ただペカらせて脳汁出したいだけのジャグラージャンキーである。反省しなければ…。

夜9時前。コインを全て飲まれ、さらに追加投資4Kしてしまった俺は、切り上げる決意をした。これでラストだと最後のコイン3枚を入れてレバーを叩く。自分の往生際の悪さを反省しつつ足元に置いたカバンを持ち上げ席を立つ。立ち上がりながら「さて帰るか…」とボタンをペシペシペシッと何気なく押したところ、右下がりにBAR、BAR、7、とリーチ目が揃い、ペカッ…!とランプが点灯した…。

「え!? マジで!?」、つい口に出して言ってしまうのも当然。完全に終わっていたのにいきなり意識が引き戻されたのだから。

最後の1ゲームで入る。こういうことも稀にある。しかし今日この時来るとは予想していなかった。とりあえずもう一度席に就き、コインが1枚もないので先ほど取り出したカードを差し直してコインを補充。そのままBIGを揃えてさっさと消化した。時間はあまりないが、これで負け分を減らせると喜ぶべきなのだろう。いくら時間がないとは言え、命を取られるわけでもなし。そのBIGを消化した後も一応ある程度回すのが礼儀であり義務だろう。

すると回し始めて10Gほどで再びランプが点いた。本当に、事もなげに光るのがジャグラーの面白さであり苛立たしさでもある。可愛さ余って憎さ百倍となるかどうか、それは打ち手に掛かっている。

にしても、貯めていた爆発潮流がこんな時に来てしまうとは、ある意味不運。しかも2回目のBIGを消化した後、もう出なきゃ、店を出なきゃと思って回していると、70G近辺でまたもペカリ。リールを回そうとするとGOGOランプが変色し、BIG確定のサインが。そのままBIGを揃え、結局BIG3連で一気に900枚近くゲットするに至った。何だ何だ、負けを減らすどころか勝ちに転じてしまったじゃないか…。

まあそんなことも良くあるし、そもそも最終的に勝てる台だと踏んでいたのでこの挙動は至極納得している。しかしながら、時間制限という側面からは、最初から打たない方がまだ精神衛生上良かったのかもしれない。

しかも時間がないといいながら、その後200Gくらいまで回してしまい。最終獲得枚数は700枚まで減ってしまうという引き際の悪さ。早く帰らなきゃならないんじゃなかったのかよ、と心の中で悪態を吐く微妙なマイジャグ勝負だった。プラス3K…。

この台が、このまま今日続けて伸びていったのか。それとも一旦またハマり、その後、明日あたりにこそ真の爆発を見せるのか。途中退店した俺には知る由もないが、明日この台に座りたくて仕方ない。
 
 
■一人メシの神髄
いつもより早い21時40分あたりに帰宅した俺は、さっさとシャワーを浴びる。帰ったらまずシャワー、その後すぐにシックスパッドを装着・起動させ、深夜まで仕事で大変な嫁が眠い目を擦りながら作り置きしてくれたメシをレンジで暖め、その間に洗濯物を取り込み、諸々の準備をしてから用意が出来たメシを食う。

メシを食う一歩手前。嫁と一緒に食っていた頃はただ「いただきます」と言っていただけだが、最近はそれに加え「いつもありがとうございます」と仕事中の嫁に対する感謝の言葉が無意識に出てしまう。そして迷える敬虔な子羊のように、テーブルに向かって深々とお辞儀をしてから食う。

「いただきます」の意味。形式的な挨拶でなく、他の生き物の命をいただきますという意味よりも更に先の、作ってくれた人に対する無意識なる敬意と感謝こそが言霊となり自然と口に出てしまう、それこそがいただきますの本当の意義なのだと、数十年来生きてきて半生を超えた今、分かる。

というわけで、以前にも増してありがたく、残すことなく食うようになった。しかも好物のハッシュドビーフ。3人前はあったろうが、当然のごとく平らげる。肉体スリム計画実践中だけど、こういう時それに触れるのは野暮であり、無意味であることも知っておくべき。一日程度暴飲暴食したところで大した差はない。それ分、余分に運動すればいいだけで、何よりスリムになるためのルーティンを続ける方が大事ということで。

家で1人、嫁が作り置きしたメシを食うようになってから、スロは別として規則正しくなった夜のサイクル、そして食事。間食もあまり採らなくなった。外食とかも別にどうでもいい位置付けになっている。嫁が遅くまで仕事をするようになってからの変化点の一つだ。そこから考えられるのは、周囲や環境が陽気でも、1人の外食はつまらないということ。誰かと一緒に食うからこそ外での食事は楽しいのだと。酒も然り。今の俺は、家でTVを点けながら、栄養のある食事を摂ってそれをプロテインで流し込むという生活スタイルで十分だった。

食事を淡々と終わらせる分、自己鍛錬に励めばいいのだ。それが簡単に出来ないから忸怩たる思いをしているのだが。シックスパッドだけじゃなく、まとまった筋トレをしなければ、勉強もしなければ、と思いつつも易きに流れてしまう現状。先述した努力の本質に関わる問題で、結構無視できない現実がそこにある。
 
 
■パッケージの意味とは
深夜1時頃、仕事の終わった嫁が帰宅。これから約1時間~1時間半、すなわち深夜2時~2時半あたりまでが嫁の自由時間となる。俺も1時間ばかし今日の報告なり酒盛りなりに付き合う。嫁もこの1か月で一気に短眠体質へと変貌したが、俺も俺で結構短眠。環境がそうさせるとはよく言ったものだ。

その深夜のおやつのために、福岡に在住する嫁の友人から先週土曜に送られてきた土産の一つである「英彦山まんじゅう」を開けた。「英彦山」と書いて「ひこさん」と読む。どう見てもそうは読めないが。福岡の地元では当たり前に読めるのだろうけど、俺などは話を聞くか、自分で調べなければ生涯知りえなかったかもしれない名称だ。つくづく日本は広いと思い知らされる。

この「英彦山」は、嫁の友人の地元である福岡県田川郡の添田町(そえだまち)と、大分県の中津市(なかつし)にまたがる山。「日本三彦山(にほんさんひこやま)」の一つに数えられるらしい。

そんな三大ナントカがあったとは初耳だが、三彦山の残り二つとしては、まず新潟県の弥彦山(やひこやま)が一つ。弥彦神社などで有名な弥彦だ。頻繁に新潟に出向く俺はよく知っている。

もう一つは、兵庫県姫路市にある「雪彦山(せっぴこさん)」。鳥取帰省の折、頻繁に通るルートだが、こちらは全く知らなかった。しかも「せっぴこさん」などという、英彦山以上に難解な読み方。どうやったらそう読めるんだよと憎らしくなるし、だから有名になれないんじゃないの?と嘲り笑いたい気持ちになる。ただ、漫画「ベルセルク」愛読者であれば、「やひこ、ひこさん、セルピコさん」などと語呂合わせして容易く覚えられるかもしれない。こういう時、漫画を読んでてよかったね、と思う。

さて、英彦山に話を戻すが、英彦山は地元の人々から愛され親しまれている山であることは確かだ。ただ、「ひこさん」と呼ぶ地元の人々がどういう意味合いで呼んでいるかは不明。単に「英彦山(ひこさん)」と名称を述べているだけなのか。それとも「ひこにゃん」「ひこちゃん」のようなノリで「ひこさん」と呼んでいるのか。全国を見渡せば、「こんぴらさん」「えべっさん」のように、あえて親しみを込めて呼ばれるご神体なども多数見受けられるし。

もう一つの側面として英彦山は、地元の人々から霊峰に近い位置付けで認識されている。その根拠として、英彦山中腹には「英彦山神宮(ひこさんじんぐう)」がある。同山はかつて修験者で溢れ返る修行の場であった、という史実も残っている。霊峰には修行者が集まるのか、あるいは修行者が集まる場所が霊峰となるのか。英彦山神宮、興味深い…。

ちなみに、他の三彦山も神社らしきものを有している。新潟の弥彦山には、言うまでもない弥彦神社(やひこじんじゃ)が、そして姫路の雪彦山の付近には、あまり有名ではないが賀野神社(かやじんじゃ)という名称の神社が祀られる。ふーん、そうかや? いずれにせよ、英彦山、弥彦山、雪彦山、どれもが霊験あらたかな山だ。

その中で今回特に取り上げた英彦山は、修験者の聖地ということもあり、天狗が住んでいたという伝承が残る。だから頂戴した「英彦山まんじゅう」のパッケージに天狗の絵が描いているわけである。かつ、パッケージの包装紙が白いのは、恐らく全盛時に英彦山にたむろした修験者達の別名は山伏であり、山伏と言えば白い袈裟を着るのが定番ということで、パッケージの包装紙も白にしたのだと解釈している。

その解釈は決して外れてはいないだろう。理由や背景を知れば知るほどに正解に近付くもの。そして、新しいことを知る楽しさを改めて認識した…。

そこでまた思い出す。自分の中にある野望や欲求は数あれど、その中でも特に、日本中の神社を廻りたいという強い願望があったはずだということを。全国に8万社以上存在する神社を全て回るのは基本無理。物理的に、何より時間的に不可能だ。100年生きるならまだしも、20年で全て回るとしたら、1年で4000社、1日で約11社…。毎日10社以上の神社を廻っていけば、20年後には全国制覇できるとか、無茶を言うなよと。

そんなんじゃなくていい。生きている間、動ける間だけでも、北海道から沖縄までの神社を気の向くままに、それでも真面目に回りたい。そんな願望もあった。2年前までは。

それが今では、そんな想いを記憶の奥に追いやって、生産性乏しき日々に追いやられるだけの自分がいる。何をやらなくてもいつかは死ぬというのに。無論、何かやってもいずれ死ぬ、それも確か。だが、やらないよりやった方がいいに違いあるまい。

と、かつてラインハルト=フォン=ローエングラムもそう言った。